田舎の街灯は害灯?(2015年12月)
冬は星空観察にはもってこいの季節である。冷たい空気で澄んだ空には、まるで手に取れそうなくらいにくっきりキラキラと星が輝いている。そして、田舎であればあるほど、その輝きはどんどん増す。同じ八雲であっても、僕が住むような山奥と市街地とでは全く見え方が違う。きれいな星空を拝めるのは田舎の特権だろう。
しかし、そんな山奥にも十数年前から道路沿いに軒先ごとに街灯がついている。その明るさのせいで、家の近辺にあっては、こんな山奥なのに夜空の星の輝きは霞んでしまっている。
かつて、僕の住む地区に街灯をつけることになった時、ちょっとした議論になったことがある。地区に長らく住んでいるほとんどの住人は街灯がつくことを喜んでいたし、僕もそうであった。
高校時代、真っ暗な我が地区の農道を自転車で帰宅していた時、路上に停めっぱなしになっていた近所の農家のトラックに気づかずに突っ込んでしまい、直撃して血だらけになった経験があるので、安全上、街灯はあったほうがいいと思ったのだ。また、女性や子どものためにも防犯上、やはり明るいほうがよいと考えるのが一般論であろう。
しかし、その時の会合で唯一反対している人が一人だけいた。その人は外からの移住者で羊飼いとして生計を立てていた人である。その人はこう言っていた。
「わざわざ、こんな山奥まで都会の明るさをもってくる必要はない。電気の無駄だし、なによりこの自然のままの漆黒の夜こそがこの地区の財産だ」と。
その人の言うことが僕にはいまいち理解できなかったし、親父連中も理解できなかったようで、結局、多数決で街灯はつくことになったのである。
でも、今となっては、その人の言うことがよくわかる。冒頭にも述べたとおり、せっかくの星空を眺めようとしても、なんと街灯の灯りが邪魔くさいことか。安全のためとか防犯のためといっても、子どももどんどんいなくなっていて、街灯の明るさはほとんど無用の長物と化している。
金太郎飴のごとく、どこに住んでいても同じような住環境を整える、ということが必ずしも正しいことだとはいえないと思う。その土地に長らく住んでいる者は、どうしてもその土地ならではのよさが当たり前のように感じてしまい、価値を見いだせないことはよくある。だからこそ、様々な立場の人の意見をよく聞いて考え、その地域にはその地域なりの過ごし方、生き方を模索していくことが大切なんだと思う。
今、我が家の軒先に光る街灯を見る度に、あのときの羊飼いの言葉を思い出し、これからを生きる教訓にしなければといつも感じている。