一.朝
冬よりかなり和らいだとはいえ、根釧原野の春の早朝はまだ冷え込み、コタンコロカムイは冷たさを頬に感じている。早朝の空をコタンコロカムイは飛翔している。コタンコロカムイの眼下には、いくつかのコタン(アイヌ民族の村)が見えている。朝餉の準備だろう。囲炉裏からの煙が見えている。
突然、見たこともない人間たちが押し寄せ、木を伐り始め、炭を焼く煙が上がった。そして、コタンが消えていく。そうこうしているうちに黄土色の巨大な怪物が木々をなぎ倒し、鉄の爪で地面をはぎ取っていく。見たこともない人間たちと黄土色の巨大な怪物は、虫の群れのように森を喰い尽くしていく。コタンコロカムイは目を疑った。しかし、目を凝らして見ても、もはや森は川の周りにしか残っていない。森がなくなった大地には草が生え、牛が放たれている。
メム(泉)がかろうじて残されたその森の一つ、中渡牧場の草地の中のメムに、コタンコロカムイはそっと舞い降りる。つがいの雌が抱卵中である。コタンコロカムイたちは、少し「ボウボウッ」と鳴き交わすと、抱卵を交代した。コタンコロカムイ(村の守り神)は、日本語ではシマフクロウと呼ばれる。
すると、やや遠くからガタン、ガタン、と一定のリズムを刻むバーンクリーナー(糞を掻き出すベルトコンベアー)の音、そしてミルカー(搾乳機)真空ポンプの重低音が聞こえてくる。
牛舎の中では、妹の春美がカートいっぱいに入れた濃厚飼料を牛一頭一頭に少し、だいたい二Kgぐらいを、てきぱきと与えている。
カチ、カチ、カチ、カチとリズミカルなミルカーのパルセーター音が響く。
赤いツナギ服を着た中渡千尋は、ティートカップを左手で持ち、右手で牛の乳頭を搾る。
牛乳がティートカップの上の皿に勢いよく搾り出された。手早くブツ(固形物:これがあると乳房炎の恐れがある)がないことを確認する。そして、きれいな濡れふきんで乳頭を拭く。乾いたふきんで乳頭を乾かすと、「いいよ」と母、佳代子に声をかけた。
佳代子はミルカーユニットを肩に担いで乳頭がすっかりきれいになった牛に近づくと、ミルカーユニットをパイプラインにセットする。そして四本のミルカーユニットを牛の四本の乳頭に吸い付けた。ミルカーユニットの中には牛乳がパッと広がった。
千尋と佳代子は、これを繰り返しながら搾乳していく。父重盛は、牛舎の西側で、乾草ロールをホークでほぐしている。
中渡牧場の搾乳牛は三〇頭ちょっとである。搾乳が終わると佳代子はミルカーユニットを前処理室にすべて持っていく。ミルカーを搾乳モードから洗浄モードに切り替えると朝食の支度のため家に上がっていった。
妹の春美は前処理室のバルククーラー(牛乳保管冷蔵タンク)から牛乳を哺乳バケツにL程度ずつ移し替える。熱湯で三九℃に温めると、子牛たちが待つ牛舎東側の子牛ペンへ哺乳バケツを抱えて行った。
父・重盛と千尋は、ほぐした乾草をホークにふわっとどっさりと刺す。二人が搾乳牛の前を歩くと、二人の後ろには大きな乾草の山がついてくる。牛たちは待ちきれなく口を出す。牛たちの前には人間の腰の高さまでふわっとどさっと乾草が積まれていく。
牛はホルスタイン種である。肋が深くルーメン(牛の第一胃)が大きく発達していて、乾草をがっぱがっぱと喰っていく。
ふと外に目をやった重盛の目に、青くなってきた放牧地が見える。
「五月の連休明けには放牧できるかな」とつぶやいたのは、重盛である。
「育成(牛)は、もう草地に出たがっているね」と千尋。
そうか、今年ももう放牧の季節なんだ、と思うと、やっと長い冬が終わり北国の春がやってきたことを実感する。