第一章

賢治が甲府の花街、若松町の置屋から通っていることは、入学後ほどなくして級友たちに知られることになった。

まだ十三、四の中学生である。子どもから大人になりかけで異性に興味があっても、遠くでちらちら見ているだけで話をすることなど思いも付かない。たまにバスの中で甲府高女や英和女学校の女学生と偶然目が合えば、ポーッと顔を赤らめる連中である。

同級生からしてみれば、賢治は女護が島「夢の花園」に住む異邦人であった。賢治の生活実態に興味を持つ彼らの、なんとなく遠回しに問われる言葉の根底に横たわっているのが、いわゆる「色町」についての誤解、無理解であった。

それは、遊郭街と芸者街との混同である。

昭和四年のニューヨークのウォール街に端を発した世界恐慌のあおりを受けた「昭和恐慌」により、米国への輸出に依存していた生糸の値段が暴落し、その後の東北地方の冷害による「昭和の大凶作」によって生活に困窮した農家が娘たちを口減らしのために「芸娼妓」として身売りせざるを得ない、という報道が為される中で、江戸、明治と続いてきた、芸者と娼婦との区別が一緒くたにされたためである。

旧来、東京でも、吉原、洲崎などの遊郭街、新橋、赤坂その他の芸者街とは歴然と区別されてきたように、全国どこでもそれは変わらず、甲府も同じである。

芸者衆のプライド、心意気は、「芸は売ってもイロは売らない」ことであり、実際、飢饉の困窮によって売られた娘たちは、芸者としてではなく娼婦になるべく売られていった者が多い。

甲府にも遊郭街があった。甲府駅の南西一キロほどにある穴切神社の北の「穴切遊郭」である。

賢治は同級生たちの認識があまりにもお粗末だと思い、自分もまだ足を踏み入れたことのない場所への興味から、同級生を誘って遊郭の実地見学を計画した。