第一章
賢治は甲府中学に入学した。
中学受験に際しては、小学校の担任と一悶着あった。卒業後の進路希望で甲府中学受験を申し出たところ、先生が「親御さんが来るように」と言う。
翌日、母と一緒に職員室に出向くと、
「お母さん、賢治君が中学を受けたいと言っとるがご存じですか?」
「はい、何ですかこの子が父親と話してそのような希望になったようでございます」
「しかしですな、甲中は将来、高等学校なり大学予科を経て大学への進学をする者のための学校ですぞ。私が承知しているところでは、お宅のご子息はいずれご商売の跡を継ぐ予定というではありませんか。商業学校に入るのが息子さんのためになると思うのですが」
「それは、この子の成績では中学受験は無理ということでしょうか」
常日頃は「先生様のいうことに逆らってはいけないよ」といっている母が、お座敷では決して見せないであろうキツイ目をして先生を見つめて言った。かたく握った両手は地味な着物の膝の上で小刻みに震えていた。
「いや、成績の問題ではありません。無理にどうこうしろとはいいませんから、もう一度よくお考えになって下さい」
翌日この話を母から聞いた父親は烈火のごとく怒った。
「バカモン! 師範出の田舎教師に何がわかる。子どもに算術や書き方を教えるのがせいぜいの輩だ」
「あなた、子どもの前でよしてくださいよ」
「かまわん、賢治もよく聞いておけ。尋常を出て、学費の要らない師範に進み、十八や十九歳で師範免許の先生様だ。高等学校や大学予科を卒業するような歳だ。それから何年教師をしようと、現実社会というものを知る機会は少ない。そんな教師の戯言など聞カンデよろしい。儂は丁稚大学卒業の金時計組だ!」
昭和初期の不況下、映画はまだ無声映画とトーキーとが混在していたこの時代、『大学は出たけれど』という映画が町の映画館で上映され、大学を卒業して嫁をもらって新生活を始めたが、実はまだ就職口はなく、新婦と田舎から出てきたその母親の前で右往左往するといった内容のコミカルな無声映画が話題になり、その題名が流行語にもなっていた。
しかし、高等専門学校や女子高等専門学校を加えても、大学に行く人口が三パーセントしかいない時代、自分が大学へは行っていない師範出の教師が、地方の商人の子が将来大学へ進学するなどということは、想像も付かない希望であったことは無理もなかった。
賢治を大学まで行かせようというのは、後々気が付いたことではあるが、父が国民皆兵に向けて改正された徴兵のための兵役法を知っていて、学生のうちは徴兵延期される、徴兵猶予の制度を知っていたのかもしれない。
甲府中学は、江戸時代は幕府直轄領であった甲府に勤める勤番士の子弟のための学校として設置された甲府学問所、徽典館がルーツの伝統のある学校である。
賢治が入学する前年までは、舞鶴城と呼ばれていた甲府のお城の郭内にあったのだが、校地が狭隘化したため、甲府駅から西へバスで十分ほどの旧・相川村、陸軍甲府連隊の練兵場や兵舎が立ち並ぶ地域の一角に移転していた。