学校での授業は、国語、漢文、英語が授業時間の約半分を占め、算数、地理、唱歌、図工、教練などがあって、高学年には物理や化学の時間もあった。
賢治は毎朝、濁川の畔に沿う道を歩いて柳町の本通りへ出て、商工会議所前のバス停からバスに乗って通学した。同級生たちの多くは役人、軍人、医者、銀行員、大会社の会社員の子弟が多く、地方の農家の子どもは豪農か地主の跡継ぎに限られ、近在の村からは一人か二人が入学していただけだった。
商家の息子たちもいたが、その多くが市内でも名の知れた老舗や大店の子どもで、賢治がこれまで一緒に遊んでいた仲間とは、生まれ育った環境はまるで違っていた。
中学の修学年限は五年間で、成績によっては「飛び級」制度があり、四年終了で上級学校へ進学することもできた。賢治の成績は、低学年の間はごくごく平均的ではあったが、学年が進むに連れて数学と英語の成績が落ちてきた。
数学は、「定理」や「公理」などというものを覚えて、問題を解いていく。しかし、それらの定理や公理がなぜそう決められているのか、誰がそれを決めたのか? と考えると馬鹿馬鹿しくなってくる。これが物理の計算であれば、複雑な滑車を使った力学の問題なら嫌いではないのにもかかわらずである。
英語はそもそも勉強する意味がないと思っていた。将来、御役人や会社員、医者などになるならばともかく、特に貿易などに関わる商人以外は、外国語などは無用の長物だと思っていたからだ。「我が国に来る『毛唐』が、我々日本人と意思疎通したいのであれば、ヤツラが日本語を学べばいいのだ」と思っていた。
過去には日清、日露の戦いを経験し、賢治たちが生まれる少し前に第一次世界大戦が終わった時代、戦に敗れたドイツを始め、日本と共に戦勝国となったイギリス、アメリカ、フランスなどの国の名前は知っていても、欧米系の外国人の区別が付かない中学生が多かった。
だから、そんな考えの中学生の外国語の成績は推して知るべしだ。