トロワ
ほど良く脱色されてまだら模様になったジーンズ・コートに身を包み、勅使河原拓史はいつものように片腕で抱えられるだけの大輪のカサブランカを携え、御器所通を上って来た。
名古屋市のなかでもこの昭和区は多くの大学が集まり、高級マンションや有名なレストランなどが増え、街の夜間人口を支えている。来年21世紀を迎えるのを記念して名駅から地下鉄も延伸され、いわば学園都市の機能が強化される。周囲は高台が多く、ちょうど盆地の窪みのような底辺を御器所通が東西に延びている。
今日は冬の入り口にしては、珍しく風は穏やか。曇り空も晴れに向かうらしい。この年齢になると早起きが身に染みつき、誰より早く出勤する。
足早に通り過ぎる人の群れ。テーマソングのチャイムを流しながら、緑色のごみ収集車が拓史の店、〈カフェ・トロワ〉の前に停まる。それをやり過ごすとエントランスのドアを解錠する。昨夜切り忘れた有線放送からは、シンディ・ローパーの『タイム・アフター・タイム』が流れている。暖房が部屋をくまなく暖めてくれるまで30分はかかる。しばらくすると皆揃う。
店内の壁は桜の天然木表皮を加工したクロスで巻かれ、経年変化でブラウンの深みが増している。森敏郎から引き継いだ桜の一枚板を使ったダイニング用テーブル。椅子はシンプルな三次元曲線カーブの背もたれ付きで、それぞれの高さにこだわりがある。食卓は67センチ。付属の椅子の座面高は奥が34センチ、手前が36センチ。この高さと差が家庭的でもっとも寛げると森は言っていた。
拓史がこのビルに入居したのは9ヵ月前。森の言うのも聞かず、内装にはかなり手を入れた。ホール奥エレベーター前のテーブルを撤去し、そこには3席分のカウンターを設置。エメコの椅子を持ち込んだ。オールステンレス製の年代物で、さすがに擦れて艶は失っているが思い入れもある。椅子については、異質な風合いだというのが大方の意見ではあったが、一度座ってみると納得してくれた。
写真館の先代館主・勅使河原から受け継いだ遺品。旧米海軍の払い下げ品を買い求めたものらしい。スタッフ以外誰も座ろうとしなかった。そこに唯一入り込めるのが森。カフェの元オーナーの特権。
彼は長身長髪でベートーヴェンと見まがうような風貌。しかし、印象とは裏腹で誰にでも話し掛け笑顔にさせることに、一日のエネルギーを費やしている。亡くなった先代館主・勅使河原の親友であり、いまはトロワの出資者でもある。こうして開店直後から店にやって来る一番の客だ。