「カフェ・トロワって、いったい森さん、どこから思いついたんです?」
言葉の響きも良く、スタジオの店名もいつの間にか写真館名でなく、〈トロワ〉と呼ばれるようになっている。
「まあ、ここの敷地もだいたい30坪だしな。3は良い数字だろ?」
拓史は適当に受け流した。拓史の旧姓も森。親戚でも何でもない。
「世の中すべて善と悪。強者と弱者、持てる者とそうでない者。そんな二極に支配されとる。バカげとるやろ。僕は白や黒より、真んなかのグレーが好きなんや。人の値打ちや考え方も偏らんと両極のど真んなかがええもんな」
彼には癖がある。長い脚を組むと、話が長くなるサイン。彼は旧店名〈カフェ・セレナーデ〉を閉店してから髭を伸ばし始め、近ごろパイプを吸う仕草も板についてきた。森は今年一番のビッグニュース"iモード" 携帯が発売されるとすぐに飛びついた。
「僕に携帯持たせとくと、カミさんにとって便利らしい。どこにいても俺をコントロールできるからな」
森は愛犬の散歩帰りに妻を電話でここトロワへ呼ぶ。これも彼らの朝の習慣。モーニングを夫婦並んで摂る。拓史に掛けてきたこともない彼の携帯は、誰のためのものか。夫婦だけの糸電話。トロワの真向いのマンションの2階自宅までをつなげばいいのである。
「君たちの取り組んでいる写真という仕事は、『己を見つめ直す』チャンスを与えてくれる良い仕事だわな」
トロワのこととなるとときおり宿題のように森は問いを投げ掛けてくるが、拓史にはその意味がすぐには呑み込めない。返事に詰まって天井を見上げる。人は何のきっかけもないのに記念写真を写そうとはしない。カメラの前に立つことは、自らの生き方に満足しているときでないと動機が立ち上がらない。その結果として、自分を見つめ直すことにもなるだろうか。いつもより少し遅れて真由子が出勤して来た。
「おっはーっ。今日はカサブランカがお迎えだぁ。嬉しい!」
「森さんが待っとってくれたぞ」
カフェ開業以来、彼女は生き生きしている。無口な拓史を補ってくれる。タイトスカートしか身に着けない彼女。ハイトーンで心地好い声が店内に響く。
「ゴメン、遅くなってしまって」
「今夜、晩ご飯食べに来ない?」
真由子はいつも拓史の耳元に何か語り掛けていく。高身長の真由子は振り向くだけで口が拓史の耳に届く。二人は勅使河原時代から10年仕事をともにしてきた相棒だが、思わせぶりなフェロモンを醸し出す彼女に手を焼いたこともあった。ベリー・ショートでうなじを見せる後ろ姿は、森にも眺める楽しみを提供している。
ジェスチャー豊かに、声の強弱も利かせて周囲を会話に引き込んでいく彼女は、最近自宅マンションで恋人と同棲を始めたらしい。小絵が会議のあと漏らしていた。真由子は2度目の相手を見つけたことになる。拓史は一瞬だけ嫉妬したが、前夫と別れて何年も経っていないことに呆れた。