Ⅲ フォトグラファー
一人前に乗りこなせるはずもないが、無謀にもさっそく緑色の愛車を駆って旅に出る。
まず自宅の門を出て最初の交差点、といっても路地裏街道。「走り始めて最初に出合う交差点を右に曲がる。次の交差点は左だ」。こうして進めば帰り路も安心。戻りは逆に最初を左に曲がって、次を右に曲がれば必ず自宅に帰り着くはず。きっと家に帰れるはずだ。母さんを心配させることもあるまい。そんな奇策を名案だと、勘違いも甚だしい。呆れるよな。
見かけぬ街を進んでいく。しばらく進むと、行き止まりもあるだろう。当然引き返さねばならない。振り向いたらどっちから来たのかもわからなくなってくる。
それでもまあ、小学2年生の身にもたくさんの発見があった。片脚はないのに杖を突きながらもニコニコ顔で街の人に声を掛けて歩くお爺さん。公園のベンチで将棋に興ずる群衆。おでんの屋台引き。がんもどきを買う10円は持ち合わせていなかった。
「今度は左だったっけ? やっぱりお向かいの律ちゃんも誘えばよかったかなぁ」
出発してしばらくすると不安を隠せず、追い込まれていった。でも、僕には引き返す勇気と慎重さはなかった。思いつくとすぐに動き出してしまう調子者。興味がほかに向くと右か左か、曲がり角の順番も忘れてしまう。とにかく夢中で1時間は走り続けただろうか。
「さっきの曲がり角は右に曲がる順番だったかなあ。いや、左に曲がってた。あれ? 戻らなきゃ」
ひたすら自転車をこぎ続ける。もう黄昏の時間が迫ってきた。もう帰ろう、そう決心して振り向く。ようやく知りたくない現実と向き合ったわけだ。
「ここはどこ?」
見慣れない風景が並んでいた。少し冷静になってみると、
「さっきもここを通ったのでは?」と、ふと思った。きっとそのはずだ。
車の行き交う大通りに出る。世田谷を出て、目黒区の先まで来てしまったことに気づくはずもない。果たしてこの小学生は自宅の住所を口に出して言えたのだろうか。