四
……あれはまだ修作が美術の世界に足を突っ込んで二年ほどたった頃、絵画のグループ展をやることになった。
神田で二度目の個展を開いた時、かつて同じ予備校だった沢辺が見に来て、そんな話になったのではないか。今となってはそのあたりの経緯はあまりよく覚えていない。
とにかく修作が関東在住というだけで、銀座の画廊を探す役目になった。
芸大を三度目の受験であきらめ(父との約束が三年だった)広告会社に形だけ就職をして、まっとうな生活をしているのだと両親にはパフォーマンスし、美術とは手を切ったようにみせかけて、制作を続けていた時のことだった。
それまで親には知らせずに二度ほど個展を東京で開いていた経験があることも、理由のひとつだったかもしれない。
他のメンバーは地方の美大生ばかりで、アカデミーに所属していないのは、修作だけだった。
もともと物心ついた時から絵に親しんでいた修作には、生活の一部のような(毎日の歯みがきのような)もので、特別なものではなく、身についた習慣としてある。ひとりだけ美大というバックグランドがないことに、いささかも引け目を感じたりすることは、不思議とその時までは、なかった。アカデミー志向かそうでないかの、考え方の違いだけなのだぐらいで……自分も同じ予備校で美大を目指したくせに矛盾してるが(小学校の美術教師になりたかったために必要だった)………………。
東京では制作スペースを確保できないことに、前々から不満だったこともあり、千葉に平屋の仮室を得て、そこから東京に通い働き、仕事がひけると、その足で銀座へ毎日赴いた。
銀座は敷居が高く、右から左という具合に無名の卵たちの展覧会を受け入れてくれるところは、なかなかなかった。何件も断りを受けて、受け入れ先が見つからない日が過ぎていった。
しかし参加者の美大生の同じ予備校だった沢辺に強く押された手前、なんとしても美大生たちの社会への最初のアプローチを、銀座で叶えてあげたかった。
「参加メンバーは俺に任せろ、お前は画廊を見つけてくれ、頼む」と、沢辺は言った。会社の昼休みに、近くの公衆電話で進捗状態を話した時のことだった。
二度ほど個展をしたと言ったが、銀座ではもちろんしたことはない。二度とも銀座からは離れた場所だった。それぐらい駆け出しのどこの馬の骨だかわからない者には、銀座は相変わらず、ステージが高いのであった。
まごうことなきデビューするとは、金があれば容易にできたとしても、社会的な認知・評価という点になると、やはり本人のなかでデビューしたと思うだけなのもまた、厳しい美術の世界のハードルが、厳然とあることを教えられもするのが、展覧会だった。