三月六日

今日の絵を見て、同室の中学三年生の吉村さんは「変な絵! 梅の枝の下に、石がころがってるなんて」と笑いました。

おお、な、なんたることを!

これは、農場係の修道女(ポストランティン)様方が、野良仕事の途中で、頭を深くたれて祈りをささげておられるところです。修院の人々はそれぞれ農場係、洗たく係 牛舎の係そして私達のような病気の生徒の世話係などに、きちんと係が分担されていてめざめてから夜眠るまでただ黙々と仕事が続けられるのです。

「沈黙は神との対話である。」と云う考えが、この世界にはあるようです。ここマリア院の自給自足の生活も、この美しい沈黙の労仂によって豊かに営まれています。

日に何度か鐘楼(しょうろう)の鐘が韻々と田園の果まで響き渡りますと仂く修道女達は一斉にその手を止めて祈りをささげます。それを今日、私が窓からスケッチしたのです。

神様ごめんなさい。絵が下手なばっかりに、あなたの大切なしもべ達を石、こ、ろ、にしてしまいました。


修道院に、時計があったかしら…もしかすると無かった気もします。時を告げるのは敷地内に響き渡る鐘の音でした。たしかに、日の出の頃の鐘で、祈りの一日は始まって一日に何度か鐘は鳴り、それを聞くと、作業の人も祈り本を学ぶ人も、一斉にその場で祈りを捧げるのでしたこれは畑を耕して居られたポストランティン(初期の修道女)の様子を描いたものです

思い出しました。

修道院は鐘で明け鐘で暮れます。祈りの鐘、食事の鐘、おやすみなさいも鐘。人を呼ぶのも鐘。とにかく祈りの鐘が鳴ったら、必ず作業している手を止めて祈ることに決まっていました

【前回の記事を読む】【エッセイ】兄は今でも少年のまま...「三月はつらい月」