花と木沓
九月二十七日
入り日を
見届ける
日はやがて
海に浸り
波に溶けて
拡がり
そして
ゆっくりと沈殿していった
九月二十八日
ちよの遺書(お母さん私が死んだら必らず見るべし)
「吾が死せる時に」
人よ、吾がたましいを
ひばり鳴く野にはなて
神よ吾がたましいを
ひばり鳴き、はてしなく広く、空にふちどられし野にはなて
よし花ゆらぎ蜜かおる天園ありとも
われは そも ひとにあらねば
つくづくと ひとにあらねば
ひばり鳴く野に はなたれよ
われ空のあお 草のみどりとなりて
あるはまた ひばりとなり タンポポの種となりて
胸深く涼風を吸わん。
(十六才ちよ熱の夜)
ちょっと恥ずかしすぎる文章ですが、あの頃は、大まじめでした。空襲によって自分の子ども時代は、東京と一緒に焼失し、北海道に流れ着いたけれど……。殆んど無傷だった、この地の人に「戦災」を語った事は、ありません。明るい子だ、よい子だと云われながら時には生きる事がつらいのでした。でも親達を泣かせるような事が、あってはならない。それを、いつも心の底に溜め込んで生きていました。
十月一日
人里はなれた聖堂ですが、ここのドアを開ける時廊下にサッと虹が走り出ます。それは聖堂の壁に、幼いイエズス様を抱いた、マリア様の大きなステンドグラスがあるためです。
私は、お祈りは大の苦手なのに、この虹が楽しくて時々聖堂にしのび込みます。ドアのわきに小さな壷があって、聖水が入っていて、その水を指先でちょんとおでこにつけ、十字を切ってから入る事になっているのですが勿論人のいない時をねらうのですから、そんな事やりやしません。ガランとした聖堂で虹の帯の間をくるくる舞ったりオルガンをそおっと鳴らしてみたり。
が、今日も“あの人”が居るから私は遊べません。“あの人”は朝運ばれて来て、夕方迎えの人が来る迄、ああして虹の中にひれふして祈っているのです。
ある、隔離病棟でお仕事をなさったユリアナ様のお話だと、そこの聖堂の隅にいつもいくつかの風呂敷包みがあったんだそうです。あんな大きな荷物を“誰が一体、置き去りにするのかしら”と近づいたら、その荷物が“アーメン”とかすかに云ったので初めて総身の崩れた人々と知ったとのことです。
こんな話を聞くと俄に腹が立って、
「さっぱり効き目が無いじゃんか」
と神様に因縁つけたくなりますが、ユリアナ様はおっしゃいました。
「神様は薬じゃないのです。そこを知る事が一番大切です。」
でも私には良く分りません。