博樹、多枝子をつけ回す
病院玄関から一〇〇メートルほど離れたところに、個人経営の喫茶店があった。決して繁盛しているとは言えないが内装はきれいに整えられ、メニューも豊富だった。時刻は昼近かったが、多枝子がホットコーヒー、博樹はアイスコーヒー。それだけ頼んだ。
博樹が焦り気味に話し始める。沈黙が嫌だったからだ。
「いや、もう引っ越し屋っていうのは大変でね、夏は暑いし冬は寒いし。かといって仕事の手を抜く訳にはいきません。お客様の大切な財産を扱う訳ですから。なに、私体力には自信がありますので、タンスなんかひとかつぎですわ。それに比べてバイトの連中はなってない! この前も一人クビにしてやりましてね」
クビにされたのは博樹である。彼女の前でフリーターだということは、やはり言いたくはなかった。見栄など張ってもすぐにばれるものだが、男は見栄を張りたがる。博樹もその一人だった。後先のことなど考えず、今は彼女との時間を楽しむことだけに集中した。
「ふふふ。お仕事お好きなんですね」
彼女は一切疑わず、優しい対応をしてくれた。
(それだけか……。熱い夜は何処へ行ったんだ)
そんなことは誰も言っていないのだが、博樹の中で勝手に熱い夜まで膨らんでいた。男と女が一晩を共にすれば誰でも想像することは一緒だろう、確かにはっきりさせなければいけないことだ。しかし聞く勇気もなく、当たり障りのない質問をした。
「あの……学生さんなのですか?」
「はい、大学で心理学を勉強しています」
「父の看病もあるので、あまり行けてないのですけどね」
背筋をピンと伸ばし、ハッキリとした口調で話す姿は大人っぽく見えた。もっと彼女を知りたい、そんな気にさせられた。
「失礼ですが、お父さんは?」
「肺癌のステージⅣです」
ある程度は予想していたが、ハッキリさせるとやはり複雑な気持ちになった。さらに多枝子は続けた。
「余命わずかと言われています」
表情には出さないが、声が心の内を伝えている。今にも泣きだしそうな気持ちをこらえているのだろう。博樹は同情とは違う、よくわからない複雑な気持ちになった。
「父に対して私は何もしてあげられません。せめて最後ぐらいは笑って人生を終えさせてあげたいと思うのですが、仕事一筋の父でしたのでどうすればいいのか……一人では心細くて」
父親がどんな人なのか興味はあったが、それより慰めの言葉を探した。
「う~~ん、きっとあなたの様な方に看病されて幸せでしょうに」
多枝子は即座に答えた。
「私、女二人の姉妹ですので、父は最後まで男の子が欲しかったらしいですよ。結婚すれば息子が出来るってうるさくて。なので、できれば私じゃなく男性の方に看病してほしいんだと思います」
一番気になっている話が向こうから出てきた。
「結婚されないのですか」
「今は一人です。相手のあてもありません。でも私、料理は得意なので、結婚には向いてると思います」
博樹はなぜかやったと思った。
「ハッシュドポテトは友達も美味しいって言っています」
「あ、確かにめちゃくちゃ美味しかったですよ」
反射的にそう答えてしまった。
「え!?」
多枝子は目を丸くして驚いた。
「あ……。いや、それを誰か男性に食べさせたことは無いですか?」
話の本題に向こうから近付いてくれた。しかし、
「残念ながらありません。お父さんぐらいですかね」
(どういう事だ? この女性に間違いないはずだ。彼女は酔っぱらって……。いや、酔っていたのは俺の方だ。しかし、この恐ろしいまでの偶然は……)