前編

やがて陽は傾き始め雲が湧いて来た。今夜は雨になりそうだ。久しぶりに二人で食事をした。駅前の大衆食堂がいいと言うので、すずに任せた。少し落ち着きを取り戻したかに見える彼女だが、言葉は少ない。あれから数時間、彼女なりに考えたのだと思う。

「やはり魚の料理が多いな。俺はサワラの西京焼きと白イカで一杯やってもいいかい」

「どうぞ。私も少し呑んでいいですか? じゃ、キスの天ぷらと甘鯛の焼いたのにします。(うしお)(じる)を少しいただきましょうか」

弘の好物を忘れていない。潮汁は彼女がよく作っていた吸物なのだ。向かい合って見ると確かに老けてはいたが、左だけの笑窪は変わらないし、横にスッと流れる一重の細い目も、唇の左下の割と大きなホクロも昔のままだ。『抱きたい』と思った。

「あなたがよく漁っていた魚ばかりね。思い出しちゃう」

「韓国へ漂流して間なしに、密にソウルへ連れて行かれた。第二次世界大戦が終わり、日本の併合統治が解けて朝鮮戦争が起こったのは知っているだろう? その頃だと思うんだ。武が十五歳で韓国のプサンまで行ってる。後で話すが、オフクロや武がお世話になった方がプサンの兵隊さんで、武が九つの時にわしらの浜に漂着したらしい。何でか知らんが。その後三年ほど武らの面倒を見てくれたと聞いた」

「そうなの……」

「で、武はオフクロも亡くなったし、わしらもいないので恩ある兵隊さんに会いに行ったのだろうよ。わしはその間、韓国のスパイとして教育されたが、デキが悪いので早々雑用に回されたんじゃ」

「武が神戸へ向かうことは健治さんに聞いたの。お母様の時は行くに行けずゴメンナサイ。私どうしたらいいか分からなかった。逃げ出した卑怯な母親だもの」と、またすずは涙を流す。

「もうよせよ。お互い様だ。これから俺たちがすることはまだまだ残されている。そう思わんか?」

「……ええ」

酒も冷えてきて、お互い進まないのですずの住む長屋へ向かった。喫茶店のすぐ裏にあって大家は店と同じ方らしい。かなり古い建物だが、使っている材木は良い物でしっかりしている。風には強いだろうが、屋根がぎこちない。雨漏りはしないのだろうか。すぐに湯を沸かしてすずがお茶を入れた。長屋なのに風呂がある。弘が火をくべる。長い間行われなかった二人の所作だった。

「これ見てみろ」

一服したあと弘は三枚の写真をすずに手渡した。しばらくの間。

「……」

すずは無言。

「武は男前だろう?」と、間が持たないので弘は茶化すように彼女に声をかける。

突然!

「ごめんなさい! ごめんなさい! 私は……バカな母親です」

彼女は泣き叫んだ。弘は二人が眠れないことは解っていたが、激しい抱擁の後で共に一つの布団に入って目を閉じた。その夜、市内の桜はすべて散ってしまった。