前編

眠れなかった長い夜が明け、健治と共に田んぼに出た弘は、懸命に田をすいた。今は何も考えたくない。三日かけて野良仕事を終え、安治に別れを告げた。『堅固で……』

弘は益田の駅に戻り考えた。このまま父芳蔵に会うためにプサンへ向かえば二度とこの地を踏むことはないかもしれない。失った絆を手繰り寄せるためにはもう一人会っておかなければならないが(ひと)いるのだ。決めた。高津へ行ってみよう。朝から強い風が吹く日だった。やっと連れて来たな、満開の桜よ。今の自分たちを掻き消すために。

喉が渇いたので駅前の小洒落た喫茶店に入って落ち着いてからにしようとドアを開けた弘は目を見張った。そこには二十五年振りのすずが居たのだ。ほんの僅かのはずの視線は長く感じ、お互いの笑みはとてもぎこちなく思えた。

「やあ」『やあ』ではないだろう。

「弘さん、お、お久しぶり」でもないと思う。

どちらにしても驚きは隠せない。咄嗟に弘は

「時間取れるか、今すぐ」

すずが経営者ではないと見て取ったから弘は言ったのだ。

「大丈夫だと思う」

とすずが答える。

すずはママに頼んで二階の席を借り受けた。

二人はコーヒーを二つ持って二階へ上がる。

日差しの良い小さな部屋に四人掛けのテーブルが三つ。窓際の一つに座した。折ってはいけないはずの桜が細長い花瓶に差してあり、窓ガラスに添わせるように置いてある。

「弘さん、生きていたのね……」声にならない。

「何から言えば良いのか、本当にすまない」

弘が一方的に二十五年の生き様を話し始めた。

すずは時に顔を上げたが、ほとんどは涙の思うがまま、俯いてそれが落ちるにまかせた。やがて自分の二十五年間と、安治から聞いた芳蔵、キク、武のことを涙ながらに伝え終えた彼は、すずの口が開くのを待った。