前編
ぐっすり眠った。弘は早朝に目覚めた。まだ東の七尾山から陽は昇っていないが明るい。駅まで歩いてみる。もうすぐ山口から始発が到着するだろう。一日が始まるのだ。そうやって日々は限りなく続く。かの世界大戦や朝鮮戦争も終わったではないか。自分が流されて韓国へ着き、二十五年も過ぎて、今ここにいる。重ねた日々の結果なのだ。今から先もだ。
弘は朝食をいただき、七時十五分の山陰線に乗って飯浦を目指した。海岸に沿って走るこの線は、とても良い眺めなのだが、弘はそれどころではない。胸の高鳴りが抑えきれずにいる。
わずか三十分で着いた。駅からは我が家より、母キクの兄、安治の家が近い。おそらく長い間世話になっていると思い、母の本家を訪ねることにした。
二十五年ぶりの田舎の空気に変わりは感じられない。駅から眺めた日本海も優しい東風と共に迎えてくれた。ここの桜も今日まで頑張って咲いている。いつ風を呼ぶのだろう。
一服する前に深呼吸をした。駅の南側の道を逆戻りして、すぐ右手に母屋が見えてくる。一台の耕運機が土煙を上げて近付いてきた。
『苗代の準備かな。もうそんな季節なんだ』
すれ違って止まった。お互いに土煙の中だったが、「ありゃ、おんし、弘かい?」
「……健ちゃんか、あーーっ」
健ちゃんこと健治は安治の長男で、小さい頃は良く遊んだ仲。忘れることはない。従兄弟なのだ。
「がぁーっ、いっ、生きておったかーー。えらいことじゃ。まぁまぁ、じい様、じい様の所へ行こう」
と健ちゃんは弘の手を引いて母屋へ向かおうとした。
「け、健ちゃん。耕運機、乗ってけ。わしも乗せろ」
「そうじゃ、こいつは置きざりにしたらいけん。早よ荷台に乗れや」
慌てて二人は母屋へ向かった。安治は芳蔵(元)と同い年。現役は健治に任せていたが、いたって元気だった。今日も朝から庭の草むしりに精を出していた。バタバタと二人が駆け寄ると、安治が大きな口を開けた。入れ歯が落ちるのと、健治が叫ぶのが同時だった。さすが親子である。
「おやじ!」
「うん」
うっかり土の付いた歯を入れた安治が頷いた。
「おじさん、久しぶりです」
慌てて口から出した土の付いた歯を拭きながら、
「ひょろし、ひょろし」
また口に入れて、「生きていたか……神様はおられた、おられた。弘よ」
涙が止まらない安治が続けて、「健治、花をもて。桶を持ってキクの所へ行け。いや、わしも行く。ばあさんや、ばあさんや」
と言いながら中へ消えた。太めのローソクを二本立てて、大量の線香に火を付けた。仏様とご先祖様に手を合わせた安治夫婦と、健治に弘。
「健ちゃん、なんで母さんと武の所だけローソクを立ててあるんじゃ?」
「あとで話すが、お前の息子武は十八歳で死んでしもうた。キクさんは大戦の後にな」
「すずやおやじは生きとるんか?」
安治は答えた。
「お前たちが漂流した後、すずさんは立派な男の子を産んで武と名付けたんじゃ。いろいろあって、すずさんは親元へいんでしもうた。キクは一生懸命に武を育てておったが、体調を崩してしもうて……。武が学校へ行けんようになっておったところに、韓国の兵隊さんが漂着されて二人を救ってくれたんじゃ。そりゃ懸命にのー。わしらも協力はしたが、彼はその比ではなかった。まるで弘の代わりかと思うたもんじゃ。
三年おって韓国へ帰っていかれた。その後武は立派に成長して、神戸に仕事が決まった。キクと共に行くはずじゃったが、キクが突然倒れてあっけなく逝ってしもうた。武は一人で神戸へ向かった。仕事も良くしたらしい。それから船に乗るようになって、世話になった兵隊さんに会いに行ったんじゃ……」