【前回の記事を読む】終戦の日の思い出…「ラジオを聴いた大人たち」はどのように興奮していたか?
昭和二十年八月五日あとさき
焼失と喪失
昭和二十年は、私の個人史の原点になっています。それは、終戦とか敗戦とかという歴史的な出来事とは全く別の感覚に根ざしている観念で、正確には、あの夜(八月五日)こそが原点なのではないかと思っています。
個人的な感覚の話で恐縮ですが、あの夜を境として、その前後の連続性が感じられないままになってしまったのです。自分を振り返るときにあの夜まではすっとたどり着くのに、それ以前の自分には何故かその延長上ですっとは帰って行けない。何か、座標軸が違っているようで、思い出などを理屈っぽく反芻しながら頭の中でたどり着くと言う感じ。上手く言えないのですが、感性がそこで一度立ち止まる。
長じて、米軍の戦略爆撃に関するレポート(英文)を読む機会がありました。市販されたものではなく、米軍資料の部分的なコピーであったように思います。
その中に日本の都市の焼夷率表があって、焼夷率の高い都市から十~二十位までの都市が一覧表になっていた感じです。そして、今治市が富山市に次いで二番目にランクされていたことを鮮明に覚えています。確か九五%であったと思いますが、今となっては自信がありません。いずれにせよ九〇%をはるかに超す数字であったと思います。
焼夷率の定義なども忘れてしまっているのですが、それがどうであれ、この数値は衝撃的でした。わが故郷はあの夜焼失したのだ……とえらく生々しい感情に浸った印象が残っています。それと同時に、「焼け出された」という感覚にどこかで馴染めず、もやもやとしていた感情の正体を見つけた感じもありました。つまり、「今治焼失」は私の中で「今治喪失」と合わせ鏡のようになっていることに気づかされたのです。
こういうことがあって、いつの頃からか、毎年、八月五日の夜は密かに戦争に関する何がしかの文章を読み、しかるべき時間に至って少しの酒を飲むことを習わしとしてきました。主義や主張を考えるわけではなく、平和を祈るなどという人聞きのいい気持も全くありません。あの夜失った故郷―そこで私を育んでくれた人々、そして、そこで育まれていた己自身を含めて―私が失ってしまった今治へのレクイエムのひと時というのが正直なところのように思います。
アメリカ
さてその後、私は防衛大に進み卒業後は航空自衛隊に属して国内留学(大阪大・大学院)した後、戦闘機の研究開発に半生を投じました。世界は冷戦下にあり、東西両陣営が先端兵器の研究開発にしのぎを削っていた時代です。わが国は日米安保条約のもとで米国と同盟を結び西側に属していたことはご承知の通りです。戦闘機は、先端技術の象徴のような兵器です。つまり、仕事上米国とはずっと日常的な関係を持ちました。そうした米国との係わりから思っていることを、書き留めておこうと思います。