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昭和二十年八月五日あとさき
避難
六日午後になって、(日高村)高橋の祖母の実家に身を寄せました。祖母の記録によれば、高橋地区でも二軒が戦災を受け、その内の一軒は祖母が荷物を疎開した親戚であったとあります。
さて避難先は和霊さん(神社)のお祭りなどでたびたび出かけた家でもあり、大伯父やその家族などともずっと親しんでいたので違和感はありませんでしたし、庄屋だったので家作は大きく我々の家族は別棟に寝起きしたと思います。しかし、全くの着の身着のままで逃げ延びたわが家族にとって、しばらくは居候の状況だったに違いありません。
それまでは、お腹が減れば「ハラヘッタ!」と母や祖母にまとわりついていましたが、ここではこの家の食事時まで待たねばなりませんし、たらふく食べることは憚られました。子ども心にもそれは分かっていました。風呂だって順番を心得なければなりません。妹や弟が愚図ったら私だって連帯責任のようなものを感じていました。
何かにつけて、母や祖母の気持ちも忖度せねばならないと思っていました。短期間であったような気もしていますが、私が家族以外の人たちとの関係とか距離感とかを、つまりややませた言い方をすれば世間というものを意識した最初の記憶です。
風呂場に敷設されている小部屋で家族だけでにら粥を食べたことがあります。美味しかった。何故か私が泣き、母が泣かんでもええと笑いかけました。記憶の底にへばりついて離れない一コマです。この時のことを思うと何故か今でも目頭が熱くなるのです。