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昭和二十年八月五日あとさき
昭和二十年当時 今治国民学校三年生
今治焼失(八月五日夜)
私にとっての戦災は昭和二十年八月五日の焼夷弾爆撃に尽きるのですが、この夜のことは既にこのシリーズの第二集に兄(山田和廣)がかなり詳細に書きとめています。私はこの夜兄と同一行動でしたからことさら補強すべきことはあるまいと思いながら、ふと祖母の残した手記があることを思い出しました。以下、祖母(秋山糸乃)の手記※をベースに我が家の戦災の夜を再現してみます。(カッコ内は私が加えた注記です)
いよいよ八月五日。この前から老人子供は疎開するようにと学校から言ってきたのですが、いつもの事ゆえ格別気にもとめず、夕方から(日高村)高橋へ(疎開の)荷物を運び、折から八幡山にさし昇る下弦の月を頼りに、十時頃車を押して家に帰ってきました。
途中、越智中(学校)の下に来ると警戒警報が発令され、大急ぎで駅辺りまで帰ってくると解除になりました。形ばかりの夕飯を食べ床につきました。
その夜は防空当番だったので少しの間仮眠する心算だったのですが、ぐっすり眠ってしまったのか気が付かず一時頃だったか、パンパンという音に目覚め咄嗟にアッと気づいて静子、静子(私たちの母・祖母の長女。五月二十三日横浜で戦災に遭い、五歳になったばかりの妹と乳飲み子の弟を連れ、東海道線の危険を避けて親戚のある新潟県の新井、今の妙高市を経由して七月上旬今治に帰着)と叫んで起こし、外を見たらもう向かいの家の立木が音を立てて燃えあがっていました。
敬子(妹)の手を引き玄関前の防空壕へ避難させて取って返したところ、もう向かいの家が燃え始めており、ああこれはもうあかんとますますうろたえましたが、その明りで主人の遺骨なども分かり持って出ることが出来ました。
もう逃げようと声を掛け合い、避難を始めました。ぐずぐずして、何時までも壕にいて蒸し焼きになったという話も聞くようになっていましたから。(母が弟を背負って何かを持ち、祖母が妹の手を引いて同行する。兄と私がペアーになってその後を追うという感じの退避行だったと思います。)
※『孫たちよ―わが心を知り給え―』秋山糸乃著 秋山謙一郎編(非売品) 平成六年一月一八日