第二章 仮説社会で生きる欧米人
推理ドラマの犯人と本質について
本質の定義、そして本質に近い仮説の解釈は難しいものですが、理解の一助としてテレビの推理ドラマを通して「日本人が考える本質論」に迫ってみたいと思います。私たちはテレビの推理ドラマをよく見る機会があります。ドラマである事件が起こると、刑事は現場をよく分析、調査し、そこから被害者と利害関係にある者を洗い出し、怪しいと感じる者を犯人と見立て、その者のアリバイ調査に着手します。
視聴者の私たちも、犯行の背後、あるいは近くに犯人が潜んでいるという刑事の見立てに違和感がなく、さらに刑事が被害者と特別な関係にある者を犯人のリストに入れて捜査することも当然のことだと思うものです。犯人が現場の周辺にいると考えることは、テレビドラマではごく当たり前のことになっていますが、実際の犯行はそれほど単純なものでなく、それゆえ未解決の事件も多くなります。
ところが、ドラマの刑事は本質(犯人)は必ず周辺の関係者と見なし、「いま、ここ」の視点に立って捜査を始めます。刑事は関係者のアリバイの有無を調べ、犯行のあった時刻と列車や飛行機の時刻表の誤差等、小さく些細なことに焦点を当て観客も刑事と同じような見立てでドラマを楽しみます。
しかし、欧米人の「本質は見えない、聞こえないが存在する」と日本人の「本質は存在し、綿密に調査すれば見つかる」とする本質の捉え方の違いは、欧米の推理ドラマと日本の推理ドラマの違いになっています。日本の刑事ドラマは日本人の本質の認識と同一線上に立っていて、犯人は必ずこの周辺にいて、見つけることができるという安易な考えになっています。
ところが、日本にも犯行と現場、犯人はいつも「いま、ここ」にいるとは限らないと見立て、ドラマを発案した作家に松本清張がいます。清張は没して二十八年になりますが、戦後の日本を代表する推理作家として存在感を示していました。彼の推理ドラマは犯行の場所と時をいつも隔てて分け、推理小説を書き上げ、異色のミステリー作家と位置づけられています。
「ゼロの焦点」では、時を戦後の混乱期と経済の高度成長が続いていた昭和五十年代後期の二つに分け、舞台も東京と金沢に設定しています、清張作品は現場中心、地元中心でなく、犯人はいつも思いもつかない結末で逮捕されるようにドラマを仕立て上げています。また「砂の器」では、時を戦争へと突き進む戦前と四十年後の平和になった昭和六十年の二つに分け、舞台は東京、秋田さらに岡山と三つに設定しています。
清張作品は「いま、ここ」の現場に囚われる刑事のカンでは解決が無理となる多面的な見方と時空を取り入れたスケールの大きい筋書きになっています。欧米人の考える「本質は目に見えるものでないが、存在する」、清張は「犯人はいま、ここにいるのでなく、遠い昔、思わぬ場所にいる」とする考えは、本質と犯人の違いがありますが、二つは「見えない本質と犯行を一本の線」で結んでいます。
「本質は見えないが、存在する」とする欧米人の思考、一方、「本質はよく調べれば存在する」とする日本人の思考。この二つは似ているようですが明らかに違いがあります。欧米の推理ドラマは時間と空間を入れ、刑事は「犯行の動機」を重視してドラマを進行させています。
一方日本の推理ドラマの刑事は、「いま、ここの現場」を重視し、犯人は近くにいると見なし、利害関係者、証拠捜し、犯人のアリバイに奔走するドラマの展開になっています。欧米と日本の推理ドラマの多くは、犯人逮捕に向け真逆に近い考えからスタートし、結果は全く違った犯人となります。この二つの姿勢、考えの溝を埋めることは容易ではありませんが、私たちは犯人(本質)の捉え方に欧米と違いがあり、この違いは政治や経済の大舞台への違いに繋がることを、確と掴んでおく必要があります。