トヨは純平にとっては「優しいお祖母ちゃん」であった。物心ついてから、トヨに叱られた記憶はない。
今となってはなぜそんな品物を買ったのか自分でもわからないのだが、小学校の修学旅行で北九州に行った際、純平は祖母への土産物としてダルマの置物を選んだ。トヨの目の前で包み紙を開いてみると、買う時には気づいていなかったが、実はそのダルマは貯金箱なのであった。トヨは孫の旅行土産を喜び、純平と真砂子にある提案をした。
「おばあちゃんはこの貯金箱に五十円玉を貯めるけん、大晦日にそれを開けようえ。そして、貯まった分を、おばあちゃんとまさちゃんと純ちゃん、三人で分けようえ」
毎年、『紅白歌合戦』が終わると、除夜の鐘を聞きながらダルマの底を開け、じゃらじゃらと出てくる五十円玉を数えては、百枚ごとにタコ糸で繋ぐのが純平らの楽しみとなった。何しろ均等に三分割した結果、純平にも一万円を超える取り分があるのである。それまでは祖母から貰うお年玉は五千円であったから、父の修治は、
「何百円かのダルマ買うてきて、得したのう。エビで鯛を釣るっちゅう言葉、知っちょるか」
と笑っていた。その五十円玉の束を得意顔で銀行に持ち込み、自分名義で作って貰ったお年玉貯金の通帳に記載して貰うところまで、純平には楽しみな正月の行事であった。そう言えば、あの通帳はどうしたろう……大学の学資の一部にでもなったのだろうか。
淑子は竜造のほうに似たか、体が丈夫ではなかったが、その母親のトヨは至って元気で、頭もしっかりしていたし、米寿を過ぎても夕方には近所の神社まで杖も持たずに散歩に出かけるほどであった。
淑子が三度目の入院をしたのは、四年前、トヨの九十歳の誕生日の直前であった。トヨは、淑子の容態を心配した。この齢になって、娘の葬式を出すような情けねえ思いはしとうねえ、淑子に良うなって貰うてから、自分のほうが先に逝かにゃご先祖にも申し訳ねえ……トヨは仏壇に向かい、何度もこう口にすることを繰り返していたらしい。淑子の容態が収まり、退院してきた時のトヨの喜びようといったらなかった。退院した母親の快気祝いには純平も東京から駆けつけたが、既に四十歳を越えていた純平に向かって、
「純ちゃん、良かったのう、お母さん元気になって。うちのほうが後に残さるるようなことになったら、どげな親不孝な娘やろうかと思うちょったんじゃ。ああ良かった。あんまり安心ばっかりしちょられんなあ、淑子が元気なうちにうちが逝かんとなあ、なんまんだぶなんまんだぶ……」
と言っていたトヨの笑顔を、純平はよく覚えている。そのトヨが、何の不調を訴えることもなく、いつも通りに就寝した翌朝、蒲団の中で冷たくなっていたのは一昨年のことである。医師も「急性心不全」との診断書を書くしかなかった。最後まで下の世話もほとんど煩わせることなく、トヨは実に静かに、平和に、その一生を終えたのであった。