お菓子の家の魔女

「他の男を褒めんじゃねえよ」

そう言って当時28歳の結愛を殴ったのは、その時付き合っていたパティシエの彼氏だ。一緒にドラマを見ていて、結愛が「この俳優ってかっこいいよね」と何気なく言った瞬間、耳がキーンと鳴り、視界に火花が散った。頬を強くはたかれたのだ。

「城山さんって、彼氏に尽くされそうですね」

微笑みながら結愛の顔を覗き込むワオに悪気はないようだ。

「ええ、学生時代の彼氏は、本当はラーメンが好きなのに、いつもケーキビュッフェに付き合ってくれて、そのあとの彼氏は、海外出張に行くたびに、外国の変わったお菓子をお土産に買ってくれて、その次の彼氏はフランス人で、フランス語で書かれたレシピを和訳して研究を手伝ってくれて……」

結愛は俯いたまま、早口でまくしたてた。いいなあ、いい恋ですね、というワオの声は耳に届いていない。それまでの彼氏はみんな優しかった。しかし、最後の彼氏、行彦ゆきひこだけは違った。最初は軽い束縛で始まり、最後は理不尽な暴力をふるった。この一撃で、結愛は彼と別れたが、それ以来、結愛は男性が恐ろしくなり、お菓子教室も女性限定とさせてもらったのだ。

生徒には、「女性同士の方が気楽だし、ナンパ目的の男性には来てほしくないから」と説明していたので、このことは麻里那も知らない。

「あの、俺にお菓子作りを教えてもらえませんか。もちろん、月謝はお支払いします。弟子入りさせてください」

ワオの声で結愛は現実に引き戻された。

「え、弟子?」

と驚いてワオを見ると、ワオの背中が見えた。ワオはぴょこんと跳ねて店の床に座り、土下座しているのだ。同じテーブルの他の参加者が見てはいけない異様なものを見るような目をしている。

「ワオさん、私は女性しか教え……」

そう断ろうとした結愛は、不謹慎にも噴き出してしまった。上目遣いで結愛を見上げるワオが、本当にワオキツネザルにそっくりだったからだ。

「確かに、俺は大した額は払えません。でも、真剣に城山さんのお菓子が好きなんです。よければ、レシピ本の挿絵は俺が無料で描きます。お願いします、弟子にしてください」

必死で頭を床につけるワオを見ると、男性と言うより一匹の可愛らしい猿が林檎欲しさに芸をしているように見えてきた。滑稽であるが、憎めない。これは、猿だ。

「分かりましたから、顔を上げてください。週に一回、私の家でプライベートレッスンをします。月謝は、今度出すレシピ本の挿絵を描くことだけ。材料は買って来てください、いいですね」

結愛はこの時、とっさに自宅でのレッスンと言ってしまって内心焦ったが、ワオは顔をほころばせ、ありがとう、と結愛の手を取って握手した。小躍りして喜ぶ姿も、動きがぴょこぴょこと細かく、まるでワオキツネザルが跳ねているようで、結愛は自分が猿使いになったような優越感を覚えていた。