プロローグ

千葉市の神山徹と春子夫妻に待望の長女が誕生し、エリと名付けられた。標準より少し小さい二千百グラムの赤ちゃんだったが、五体満足だったので両親は何も心配しなかった。

ところが産科の助産婦さんは不思議に思った。ほぼすべての赤ちゃんは産道を通り抜けた途端肺が膨らみ、オギャーと産声をあげるものである。この赤ちゃんは、産声をあげることなく、肺を膨らませると大きくフーと息を吐き出し、ニコッと笑ったのである。もちろん産声をあげないから異常だと言うわけではないが、この世に出てきて最初に笑う赤ちゃんに初めて出会った助産婦は「あらま」と驚きの声をあげた。

エリは手の掛からない赤ちゃんであった。お腹が空いたり、お尻が濡れたりすると、大声で泣くのが赤ちゃんの習性であるが、エリは腕を振り回すのであった。

二ケ月もすると、両手をパチンパチンと打ち鳴らして訴えるようになった。手は掛からないのだが、上の長男に比べるといかにも食が細いように感じる。春子が必死に乳を飲ませようとしても期待の半分も飲むと止めてしまう。病気というのではないが、身体の成長は標準より小さいのだった。

身体は小さいのだが、寝返りやハイハイや掴まり立ちなどは普通に出来るようになったので、乳児検診でも問題になることはなかった。エリは言葉を覚えるのは速く、一歳になるとママ、パパは言えるようになり、二歳になる頃には保育園に入れても良いくらいに話が出来るようになった。身体は小さいが明るく良く喋る活発な幼児だった。

エリが三歳になったある日、春子がいつもより遅くまで寝ているエリを起こしに来て、ぐったりしている様子に驚いた。春子がエリの額に手を当ててみると燃えるように熱いではないか。

(これは大変だ。救急車を呼ばなくちゃ)。

既に夫の徹は出勤してしまった。春子一人で何とかするしかない。慌てて救急車を呼び、近くの総合病院に入院させた。意識のないエリはいろいろと検査されたが、何の病気かはっきりしない。熱はあったが、検査で細菌や病変は見つからなかった。結局、エリは三日入院した。その間、うなされている時間が多かった。

三日目の真夜中、エリが突然半身を起こしてベッドに座るような恰好をした。そして、病室の天井の辺りを見回していた。春子には何も見えなかったが、エリは何かを見回しているようであった。

(熱で頭がおかしくなったのではないか)。

春子は不安になり、看護師を呼ぼうとブザーに手を掛けて手を止めた。エリが静かに笑っているではないか。誰かと話をしているようにも見える。エリの眼には力が溢れ、熱にうなされていた昨夜とは全く違う。顔色にも力が戻っているようである。春子は不思議なものを見るようにエリを見つめて動けなかった。