2020年 夏の風子
幸多は散歩が大好きだ。窓辺によく立つのは外が見えるから。
昔も家の窓から身を乗り出して声を上げたりして、苦情の種を撒いた。
マスクを嫌がる幸多に、かけないと連れて行かないと強引にかけさせ外に出ると、日差しがとても強い。幸多には可哀想だが、散歩は早めに切り上げたほうが良さそうだ。
丈夫そうに見えるが、幸多はよく熱を出す。幸多に限らず、ここの施設の子たちは総じて抵抗力が弱い。もしクラスターでも発生すれば重症になる子も多いだろう。
そうなったら、こんな小さな施設はすぐ潰れるから、みんなかなり神経質になっている。
その上、子供たちは親が週末会いに来られないので荒れていて、職員のストレスもピークに近い。
いつものようにハウスの入り口の看板の前で幸多が立ち止まった。白地にピンクでエンジェルハウスと書かれた字の周りを小さな天使たちがラッパを吹いたり、花を持ったりしながら舞っているこの看板を幸多はとても気に入っていて、必ずここで立ち止まる。
看板の奥にある施設の上の夏空には雲一つない。白い壁と青い屋根のこのエンジェルハウスは施設にいる子の親の設計。メルヘンチックな看板もやはり、子供を預けるイラストレーターが描いてくれた。
エンジェルハウスは、障害児を持つ親たちが彼等の老後を心配して金を出し合って作った施設だ。同じような子を持つ親が土地を提供してくれたので、こんな葉山の環境のいい所で周りも気にせず格安に使用出来ている。
今は公的資金も出るようになってなんとか軌道に乗ってきて、新しい園児を受け入れる余裕も出来た。
風子の母も幸多のために出資した一人だ。「風ちゃんには何もお金は残してあげられなくなるけど」幸多の面倒はあの施設で見て貰えるから、と母は言った。
父の死後、ただただ子供たちの心配をし続けた母だが、この施設のお陰で最後は心残りなく死ねた気がする。
幸多と一緒にエンジェルハウスに入所して十五年。ここは幸多にとっても風子にとっても、母の思いのこもる大事な場所だ。
幸多が強く看板を叩いた。
「天使さん、そんなに叩くと痛いよ」
それでも幸多は叩く。幸多は興奮すると止まらない。その手を掴んで、叩き続ける幸多を見つめる。幸多には幸多なりに理解する時間が必要だ。やっと幸多の視線が看板から離れて、風子を見た。
「天使さん、叩くと痛いでしょ」
幸多が急に歩き出した。幸多の大きな手を握って松林のほうへゆっくり歩く。潮の香りが微かにする。
施設では幸多の面倒は他の職員がやって風子は関与しない。最初はそれを嫌がって暴れたりしたが、半年ほどで落ち着いた。それでもたまに風子が声をかけると全身で喜ぶ。
幸多が立ち止まり風子の手を引っ張り、嬉しそうに笑った。幸多はまるでそれが言葉であるかのように、風子にいつも笑いかける。
「幸多は風子が大好きなのよ」
そう言うたび、母はいつも切なそうな目をした。
幸多は風子に絡みつく。時々風子の胸を触る。強く抱きつく。幸多は今、三十六。彼が弟だから、風子は介護士になった。たった一人の身内でたった一人の姉だから。父は早くに死んで、母は身体が弱かったから。
幸多を連れて歩く時、人の視線の痛さを知った。憐憫の傲慢さも知った。そう感じる自分の汚さも知った。
幸多は風子の人生を決めた。幸多は風子にいろいろな物を与えた。それは重いものが多かったと思う。背の高い幸多が、太った身体を曲げて風子を覗き込む。
「何?」
風子が笑うと幸多がまた嬉しそうに笑った。
幸多は可愛く、重く、憎く、哀れで、愛しい。幸多を思うと様々な感情が動く。母のようには愛せない。