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岩手県小山田村付近の遺跡調査行

南津軽郡の調査一浅瀬石川流域

一九二八年(昭和三)七月二七日、中谷は木村善吉(考古学研究家。「陸中大湯町竪穴調査報告」『人類學雑誌』四五-九の論考あり)とともに秋田県大館町(現大館市)の(くり)(もり)教育団で真崎勇助翁(一八四一~一九一七。元東京人類学会員)収集の土器・石器や菅江真澄の著書等(現在、大館市立中央図書館蔵)を見たあと大館に泊まった。翌二八日に青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)入りし、三〇日まで県史蹟調査委員の佐藤雨山(一八九三~一九五九)の案内で付近の遺跡を調査した。

まず、南津軽郡山形村豊岡(現黒石市豊岡(一)遺跡)の積石塚(ケールン)の調査を行ない、翌日には南津軽郡花巻村(山形村の誤り)鷹待場の遺跡(現黒石市花巻遺跡)を調査した。豊岡の積石塚では、(てっ)(さい)多数と簡形埴部破片(羽口とみられる)が混じっていたことから、製鉄関連の遺跡とみなし、墳墓の確認はあきらめ地下の発掘は行なわなかった。

鷹待場では、組合せ式石棺出土地点と明治二一年に大甕が出土したりんご畑の地点を二日間にわたり調査した。組合せ式石棺一、二基を調査したが出土遺物はなかった。また、大甕出土地点では二メートル四方の調査区からビール箱二個の出土遺物があった。

現在の円筒上層式土器のほかに安山岩質の石皿やブーメラン状打製石器(不明)等であるが、この土器型式については最初の発見報告地を冠して、「花巻式土器」と呼ぶべきこととしている。

この調査には同村青年達が協力し、後に花巻土器保存会を作ったという。ちなみに、佐藤は著名な郷土史家で、「浅瀬石川郷土志」(佐藤・工藤編一九七六)の著書がある。また、この調査中の中谷の宿は佐藤宅であった。