【前回の記事を読む】北津軽郡の遺跡で発掘された“興味深い”出土品とは…?
岩手県小山田村付近の遺跡調査行
北津軽郡~西津軽郡の調査―十三湖南岸と岩木川流域
亀ヶ岡は、雷電神社南側の水無沢(沢根地区であろう)の畦道数か所を二日間にわたって調査し、掘り残されていた狭い地域から完全な土器を数個発掘した。また、包含層の一部が淡水産貝塚になっている隣接の田小屋野貝塚では、円筒土器を発掘した(清野一九六九)。いずれの調査でも人骨の出土がなく予想したほどの成果はあがらなかったようである。
この後に向かった西津軽郡森田村(現つがる市)の竪穴遺跡では、祝いわい部べ埴はに部べ土器(須す恵え器・土は師器)の破片が点々としており、表面が窪んでいた竪穴住居跡を二軒発掘した。このうちの一軒からは鉄滓の塊が多数出土した。土器は出土しなかったが、付近に散布している土器によりこれと同一時期のものとみている。付近には縄文土器片はなかった。
このことを踏まえて、これらの竪穴を、今でこそ平安時代などの古代の物と考えることは常識化しているが、東北地方などに見られる表面が窪んだ竪穴は石器時代の物ではないとする考えを述べている。当時としては卓見であった。この竪穴遺跡については、鰺ヶ沢街道のすぐ上の場所であった(今井一九五七)ということを考えると、八重菊遺跡などの可能性がある。
なお、今井からの私信によると、この亀ヶ岡の発掘で得た優品は、現在、東京大学総合研究博物館に保管されている。また、亀ヶ岡調査の際には、旅館を営む越後谷権作秘蔵の大土偶を見せられ、中谷がその大きさ(注高さ三五センチ『縄文の土偶』歴史発掘③藤沼邦彦講談社)に驚いたという。後に、国の重要文化財に指定される片足のない遮光器土偶のことである。
その際に、越後谷は「自分は出征中、大山巖元帥の部下であった。元帥のご子息である次男の大山柏(一八八九~一九六九。大山史前学研究所を主宰。後に慶應義塾大学講師)のことを考古学者と聞いているので、まだ発掘をしていない自分所有の苗代を発掘してもらいたい旨伝えてほしい」と中谷に依頼した。それが、その後(昭和二五年八月)の慶應義塾大学による亀ヶ岡発掘の端緒となったという。
中津軽郡の調査―岩木山北~東麓、青森
八月六日(五日の可能性もある)に中津軽郡裾野村(現弘前市)の役場を訪ねたあと、巌木山神社の宮司長見恒久の好意で陸奥式土器や青竜刀形石器などの出土品を見せてもらった。十と腰内遺跡(現十腰内(一)遺跡)(青森県埋文一九九九・二〇〇一)、やや南の伝次森山の遺跡(現十腰内(二)遺跡であろう)を発掘し、後者からは、薄手式土器(縄文後期の土器)が多量に出土した。
また、一キロメートルほど南にある御月山の遺跡では伝次森山と同様、包含層は荒らされてはいなかった。東隣にある十面沢では、広大な湯ヶ森の遺跡がところどころ掘られており、遺物はまったく発見されなかった。この後、丘を一つ越えて北東方向の清水森(現弘前市)の遺跡を発掘し、厚手の土器(縄文中期の土器)が出土した。
また、中津軽郡の高杉村(現弘前市)役場を訪ねたあと、遺物の所有者宅で資料を見、岩木山北東麓にある同尾根山遺跡(尾上山遺跡であろう)を調査し、陸奥式後期(縄文晩期)の土器が出土した。
ちなみにこの北東麓は、昭和四一~四四年、筆者が学生の頃、たびたび踏査した遺物を採集した地域でもある。七日には、青森市の県庁学務部教育課に地方視学官の福士百衛を訪ねて今回の調査への配慮に対するお礼を述べた(人類学教室からは県庁あてに事前に協力依頼状を出していた)。
そして、当時収集家として知られていた元東京人類学会員の佐藤蔀宅(現青森市松森二丁目)を訪ね、十腰内遺跡などの津軽の出土品を見たり、当時の亀ヶ岡発掘の話を聞いたりした。ちなみに、佐藤宅で中谷が作成した実測図のカードは東京大学総合研究博物館に保管されている。