【前回の記事を読む】時代を先取りした研究法!? 考古学者の父・治宇二郎の調査資料
岩手県小山田村付近の遺跡調査行
菅原セツとの結婚
治宇二郎は、東大の文学部美学科の聴講生菅原セツと一九二五(大正一四)年、セツの郷里において仮祝言をし、東大を卒業した一九二七(昭和二)年四月二三日、東京市中谷家において結婚式を挙げた。
セツは父菅原徳之助、母タニの長女として一九〇一年(明治三四)七月二日、岩手県和賀郡小山田村字下小山田(現花巻市東和町前田)で生まれた。徳之助は、慶應義塾の理財科(現在の経済学部)に入学したが、東京物理学校(現東京理科大学)の卒業証書を持って帰郷したという変わり者で、家業にはあまり関わらず、書斎にこもる人であった。徳之助の生家「下田家」(屋号)は数代前に養蚕で財をなしたという。
セツは、一九一八年(大正七)三月、岩手県立盛岡高等女学校(現岩手県立盛岡第二高等学校)を卒業、日本女子大学に入学したが、翌年一〇月病気で中途退学した。しかし実際は病気が理由ではなく、良妻賢母を育てる学風に気性が合わなかったからだという。
一九二二年四月、治宇二郎と同時に東洋大学文化学科に入学した。
「この同級生の中に、紅一点、いつも束髪に小さいリボンをつけ、着物に青い袴姿で、一番前の席にいつも座り、勝気そうな女子学生が一人いました。この人が後に中谷治宇二郎さんの妻……となった人らしい」とは前述の小塚項平さんの回想記にある。
一九二五(大正一四)年三月、同大学卒業。同年四月。東京大学文学部美学科聴講生として入学。
一九二七年八月五日、長女桂子誕生。治宇二郎は考古学を始めた時からセツの実家を足掛かりに東北地方の考古学調査を精力的に行ってきた。それを総括して一二月一〇日、第四〇四回東京人類学会例会で「東北地方旅行中の見聞」と題して講演した。一二月二〇日、一家は神奈川県鎌倉町能蔵寺二九三番地(来迎寺通り)に転居した。