青森県津軽地方遺跡調査行
一九二八年七月下旬から二週間、病理学者で日本石器時代の研究もしていた清野謙次さん(京都大学教授)の依頼と資金援助により東北地方の調査を行った。この事については福田友之著(前青森県考古学会会長)の『青森県の考古学史ノート』研究者たちと先史遺跡の記録―に詳しい。
さて、一九九八年(平成一〇)に中谷のご長女である法安桂子氏から、青森県における中谷の関わった遺跡について何度かお尋ねの電話をいただいていたが、一九九九年(平成一一)三月二六日付けの私信で、中谷が、一九二六年(大正一五)~一九二八年(昭和三)にかけて本県を調査でたびたび(大正一五年、昭和二年五~六、一〇月、三年七~八月)訪れていたことが判明した。
このなかで昭和三年夏の調査はもっとも長く、大学の夏期休暇を利用して七月下旬から約二週間の日程で行なわれた。調査は、貝塚調査が主な目的で、古人骨を収集していた京都帝国大学医学部教授の清野謙次(一八八五~一九五五)からの全面的な援助があった。
清野とは昭和二年に秋田県鷹巣町(現北秋田市)の調査中に出会った折り、来年夏の調査の際の援助の約束ができていたようである。北陸出身の中谷が、東北地方のなかで最北の津軽を目指したのは、注口土器の研究以降のことである。
陸奥式土器(縄文晩期の土器)と薄手式土器(縄文後期の土器)の共伴関係や東北地方の竪穴住居跡が石器時代のものかどうか等の問題意識から、「東北地方の石器時代遺物の考察に日を暮してきたが、之等の疑問の為に更に調査の必要を感じ、そのフイルドを津軽にとった。津軽は地形の独り一単位をなせるのみならず、従来東北の遺物を代表した遺跡は殆どこの地にあり、その文化の心臓部とも考へられる所であつた」(中谷一九二九)と津軽を選んだ理由を述べている。
昭和三年夏の調査記録は「東北地方石器時代遺跡調査予報―特に津軽地方に就て―」と題して、翌年発表された(中谷一九二九)。
そこで、本稿ではこの報文をもとにして、これに清野あての書簡(清野一九六九)、法安桂子氏のご教示や「治宇二郎がセツ夫人にあてたハガキをもとにまとめた行動記録」、さらに調査に同行した板柳町生まれで、当時東京在住の今井冨士雄(一九〇九~二〇〇四。後に成城大学文芸学部教授、岩木山麓埋蔵文化財緊急調査特別委員会指導顧問)によるご教示や著作を加えて、その調査行程を復元してみることとする。
ただし、日付や遺跡の調査順などには筆者の推測もかなり含まれていることをお断りしておきたい。また、登場人物については本稿の性格上、敬称を略させていただきたい。