さて、御堂筋の入り口、今橋にあった会社は古い歴史を持っていて、当時会社の横にあった料亭を社員寮として地方出張者の宿泊や宴会所として社員に開放していた。その今橋寮に課の皆さんが興味深々集まってきた。シシャモとはいかなる魚か見つめる中で私は用意して貰った二台の七輪で焼き始めた。
シシャモは馬の鼻息で焼けると言われるほど熱にデリケートな魚で、脂が乗っているため焼き加減が難しい。父親に焼き過ぎだと叱られながら程よく焼いた私である。
次々に皿に載せ配り続けると次から次に旨い、これは旨いと声が掛かる。課長にもこれほど酒に合う旨い干物は食べたことが無い、また頼むと言われたが、察するに鵡川の親戚から送られてきた父の好物を皆さんにと段ボールごと送ってくれた親心を痛く感じたものである。
以来、新地の店で毎晩のように飲み続けることになったが皆ウイスキーを水で割るのには驚かされた。私は父親に連れられて第一章に書いた胆振線沿線のスキー場に向かう時、乗換駅であり始発駅でもあった伊達紋別駅のだるまストーブにあたりながら父がポケットからウイスキー瓶を取り出し口に運んでいた姿を見続けていて、ウイスキーは生で飲むものと思っていた。そしてその後の大学時代にも当然のようにウイスキーを生で飲み続けてきたが今、会社の先輩たちは水で割っている。私もためしに飲んでみたが水っぽくて飲めたものではなかった。
その後、広島支店を経て東京本社に転勤し、東西貿易でロシア人と付き合うようになったが、生で飲むウオッカに全く抵抗が無くむしろ無味無臭で嫌味の無いウオッカが好きになり、皆で飲み談笑しながら乾杯を続けるバンケット(宴会)を楽しむようになっていったのは父親からの無形の贈り物と思っている。