全国の全逓の仲間にお礼

鉄郵の縮小廃止に反対し戦った全国の全逓(ぜんてい)の仲間にお礼を表するとともに、『全逓(ぜんてい)カメラ集団写真集鉄道 郵便失われた職場』に載っていた鉄郵の歴史を紹介します。

*鉄道郵便局の歴史

守屋進(元全逓(ぜんてい)名古屋鉄郵支部支部長)

鉄道郵便の誕生

明治四年、新式郵便制度が創設された。当時の郵便輸送方法は、郵便脚夫、馬車などが中心であった。そのため速度面では、江戸時代の「飛脚」の域をでなかった。

明治政府は、近代化推進のため鉄道の敷設に力を注ぎ、明治三年三月、品川から横浜までの鉄道敷設工事を着工した。

明治五年二月、当時の駅逓寮頭前島密は、鉄道頭井上勝にたいし、竣工間近い鉄道に郵便を搭載できるよう交渉を行った。同年五月九日より品川・横浜間の鉄道列車の一室を利用して、一日往復五便を締め切り便または託送便のような方法で、郵便輸送を行ってよいとされた。

鉄道郵便乗務の始まり

その後、注目すべきは、明治五年六月一三日新橋・横浜間の列車に、初めて郵便輸送のための護送人(現在の郵便局員)が乗務する護送便採用した点である。これをもって、鉄道郵便乗務員の嚆矢といえる。

明治二五年三月二五日「鉄道郵便取扱手続」が制定され、鉄道郵便車において、郵便物の区分け作業が開始された。

戦中・戦後時代――戦時体制下の鉄道郵便

日本は昭和六年の満州事変、昭和一二年の日華事変、昭和一六年太平洋戦争突入と次第に戦時体制をとるに至った。郵便事業もそれに即応し、「満州国」などの占領地域に対する“軍事郵便”などを主体に拡大していった。しかし、日華事変以降、郵便事業収入を軍事費会計に繰り入れられ、

郵便の検問の実施、さらには太平洋戦争の戦局悪化に至り、サービスの低下、一般人の使用する郵便の制限、郵便輸送力の減少、一方緊急郵便(官公署及び戦時下重要な業務を営む者が発受する郵便物)はいかなる障害があっても輸送することが要求された。

戦後復興時代――敗戦後の鉄道郵便輸送

全国一四鉄道郵便局が、分掌したのは第二次世界大戦も末期の昭和二〇年八月であった。また外地には、京城(ソウル)鉄道郵便局他数局が置かれていた。

昭和二〇年八月一五日敗戦を迎え、産業・経済・文化の復興のためには、郵便は不可欠なのであり、輸送の主役である鉄道郵便の復旧が強く要請された。鉄道郵便の復興は、国鉄の復旧と表裏一体であり、わけても戦災による施設荒廃、占領軍に対する車両の提出、石炭事情などから復旧は困難を極めた。昭和二〇年一一月運輸省から、輸送力二五%増の方針が出され、郵便輸送も遠距離直通旅客列車及び普通列車にも郵便車を連結し、運行されることになった。