【前回の記事を読む】【歴史】室町時代、多くの歴史書に名を連ねた「楠木正遠」に迫る
第一章 袴田一族のルーツ研究
三、橘氏・楠木氏の系図
(二)行遠・高貞の生い立ち――楠木正成を最後まで支えた長兄・正遠
後醍醐政権の崩壊
しかし足利尊氏は、弟の直義の制止を受け入れて後醍醐天皇の命に従わず、新田義貞を追討し、箱根竹ノ下の戦いで破った。そしてそのまま京に攻め上がり、天皇を攻めた。ところが、直ぐに彼らを追って陸奥からやって来た北畠顕家に追撃され、尊氏らは九州に逃れて行った。
但し、これは後醍醐政権崩壊の第一歩であった。足利尊氏は、ただ漫然と九州に落ち延びたわけではない。次々と布石を打っていたのだ。
建武三年(一三三六年)二月、没収地返付令を出し、土地問題で建武政府に不満を持っていた武士たちの支持を集めた。さらに京を離れる際に、光厳上皇に院宣を出すように求めた。天皇家の分裂が明確にされ、いわゆる南北朝の動乱の時代へと突入することになる。
このように尊氏が反後醍醐の姿勢を明らかにしたとき、諸国の武士たちは、自分たちの求めていた新しい幕府の出現を期待して、再び尊氏の軍に味方した。一方、戦局を見誤った後醍醐天皇の政府は、機能が硬直化し、有力な武将を失って崩壊状態にあった。
楠木正成、尊氏との和睦を提言
後醍醐天皇は、一三三六年二月十九日、元号を「延元」と改元した。足利尊氏が九州へと敗走したので、ほっと安堵できたからである。
この戦勝ムードの中、楠木正成は一人この状況を安楽していなかった。正成は水をさすことを覚悟で、後醍醐天皇に進言した。この進言とは、新田義貞を討伐し、九州から尊氏を召し返して、尊氏と和睦する、という内容であった。
尊氏への使者は、自分が買って出るという。この唐突な進言は、「正成、何を言うか」と思わんばかり、後醍醐天皇たちは鼻であしらった。しかし、敢えて正成は、言いにくいことだが必死に訴えた。
その主旨は、帝が鎌倉幕府を倒せたのは、尊氏の忠功のお蔭である。帝に味方していた京都の武士たちでさえ、勝利を収めたはずの帝を見限り、尊氏の九州下向に同行してしまった。尊氏は西国を平定し、来春には京都へ攻め上って来るであろう。そのときは大軍を率いての進撃を止めることはできない、ということである。さらに、武略に関しては、正成の進言に間違いがないので、熟考するように涙ながらに訴えた(『梅松論』)。
しかし、予想どおり正成の進言は無視された。もはや建武政権において、正成の居場所はなくなってしまったのである。正成率いる楠木一族の最期の時が、近づいていた。