【前回の記事を読む】発見された袴田五郎左衛門のルーツ…推測される重要な事実とは⁉
第一章 袴田一族のルーツ研究
三、橘氏・楠木氏の系図
(二)行遠・高貞の生い立ち
推定生年
楠木家当主の正成と、嫡男の正行の年齢から勘案すると、おおよそ推定することができた。
長男の楠木正遠が、正和五年(一三一六年前後)
次男の楠木行遠が、元応二年(一三二〇年前後)
三男の楠木高貞が、元亨二年(一三二二年前後)
彼ら三兄弟は、父・楠木正延、母・楠木正成の姉の子供として、それぞれ誕生したのだ。当時、両親の存在が明確なのは珍しいことである。但し、母の名前は明らかではない。姓名楠木姓と和田姓の関係を究明すると、楠木も和田も同族であり、明確に区別はなく、時によりどちらかの姓を楽しんで名乗っていたことが分かる。
『系図纂要』橘氏系図から判断すると、概して当主が「楠木」を名乗り、次男以下が「和田」を名乗っていたようである。
三兄弟の祖父は楠木満俊で、和田新兵衛、親遠とも言う。和田和泉守の養子となり、世人からは岸和田殿と呼ばれた。泉州岸城城主である。定かではないが、祖父・満俊の二代前の当主・楠木成長の四男が和田新左衛門を名乗っていた。
さらに一代前の当主・楠木成氏の弟・正貴が和田新五郎を名乗っていた。この両名のどちらかが和田和泉守となり、満俊を養子にしたものと思われる。父・楠木正延は和田四郎、長兄の楠木正遠は和田正遠で和田和泉守とも名乗っていた。したがって、先祖の名乗りに準拠して次男の楠木行遠は「和田行遠」、三男の楠木高貞は「和田高貞」と呼ばれていたことが推測される。
但し『系図纂要』には、兄弟の和田姓については明記されていない。兄弟の幼年時代行遠、高貞兄弟は、幼少の頃からずっと長兄・正遠の後を追っていた。兄の勇姿が自分たちの誇りでもあった。既に彼らの叔父である楠木正成は、正和四年(一三一五年)に父・正澄の死により、楠木家の当主となっていた。兄の正遠は、楠木八臣の一人として正成を支えていた。