【前回の記事を読む】足利尊氏と楠木正成の決戦が始まる…奮闘虚しく”自害”したのは?

第二章南北朝時代の行遠・高貞

四、井伊道政率いる井伊一族の援護

延元三年/暦応元年(一三三八年)九月、一行は約五十隻の大船団を編成してそれぞれの赴任地へ向かうため、伊勢国大湊から出港した。

しかし不運にも天竜灘で暴風雨に遭い、北畠顕信や義良親王は伊勢国篠島に吹き戻された。北畠親房は予定通り常陸国東条浦に辿り着いた。一方、宗良親王ら一行の船団は、二、三日沖に漂ううちに僚船をすべて失い、辛うじて浜松の白羽の湊に打ち上げられた。

間もなく宗良親王、行遠・高貞兄弟を含む一行は、遠江国の豪族・井伊道政に救いを求めた。

遠江国の南朝方といえば、第一に井伊一族が挙げられる。井伊氏は藤原北家流で、代々在地国主として遠江守や遠江権守を歴任した。井伊道政は快く宗良親王を三岳城に迎えた。そして宗良親王のために、二宮御所を建てた。このように井伊一族は、結集して遠江国の南朝方勢力の本拠となっていたのだ。

井伊一族の勢力圏の近くの浜松荘、気賀荘、都田御厨といった荘園の本所は、後醍醐天皇の大覚寺統や、南朝系公家だった。当時、井伊氏の城がいくつかあった。井伊城とあるのは「三岳城」のことで、麓に築かれたのが井伊谷城である。井伊氏は三岳城を中心に、大平城、鴨江城、千頭ヶ峰城などの支城を築き、守りを固めていた。したがって当書は、城名が紛らわしいので井伊城はすべて「三岳城」と統一して表記した。なお後述する「井伊谷城」は、三岳城を含むすべての井伊氏の城が落城後に新たに築かれた城である。念のため付記したい。

偶然とはいえ一年足らずの延元二年/建武四年(一三三七年)七月にも、宗良親王は三岳城に迎えられていた。もちろん井伊道政は味方だった。

そのときは今川軍と三方ヶ原で合戦となったが、勝敗はつかなかった。したがって、宗良親王にとって再び、本拠地(三岳城)に入ったのだ。これも宗良親王と井伊一族との運の結びつきが、現実となった証拠である。このとき、井伊道政は三岳城に本拠を構え、反足利尊氏方に立って守護・今川範国と対立していた。しかし、遠江南朝方は、軍事的劣勢であった。

そのため宗良親王は、今回も勝ち戦をしながら三河を経て、吉野に赴くことは不可能だった。