五、後醍醐天皇崩御
一方、南朝の吉野にいる後醍醐天皇は、劣勢を覆すことができないまま病に倒れた。そこで延元四年/暦応二年(一三三九年)八月十五日、奥州に至らず吉野に戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位した。
その翌日、吉野金輪王寺で、朝敵討滅・京都奪回を遣言して崩御した。享年五十二歳であった。後醍醐天皇亡き後の南朝の政務執行体制は、わずか十一歳の少年である後村上天皇のもと、北畠親房を首班として洞院実世、四条隆資らによって固められた。
六、後醍醐天皇崩御の知らせ
宗良親王が到着して南朝方は、一旦盛り返したらしい。
しかし翌年の延元四年/暦応二年(一三三九年)九月末、父・後醍醐天皇の死去が紛れもない事実だと悟った宗良親王は、「いとゞ夢の心ちして、さらでだにさびしかりし山の奥のすまゐどもち、いかゞとおぼつかなければ」、吉野にいる検非違使別当四条隆資に、井伊城の紅葉を一葉包んで歌を贈った(『李花集』)。
その場にいた随兵の行遠・高貞の兄弟らも、その悲報に宗良親王の心情を察して、共に悲しみを堪えた。
この二カ月前の七月末には、尾張守・高師泰によって既に三岳城の東五キロメートルの大平城が落城していた。