最後の出陣

延元元年(一三三六年)四月、正成の予感は適中し、足利尊氏と直義が九州から上京してきた。尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取りながら、大軍を率いていたのである。この知らせを聞いた後醍醐天皇は慌てふためき、見下していた楠木正成を呼び出した。「直ぐに兵庫へ向かい、新田義貞に合力せよ」という命令であった。

正成は、尊氏が九州から大軍を率いて上洛するのに対して、こちらは疲弊した小勢であり勝算はない、と判断した。そして即座に新たな戦術を進言した。

その主旨は、新田義貞を京都へ呼び戻し、再び後醍醐天皇は比叡山へと逃れ、自分は河内へと下って畿内の軍勢を集める。足利軍が京都に入ったら封鎖し、比叡山と両方から兵糧攻めにして、味方が集まったところで一気に攻める、ということである。だが再び正成の提言は却下された。

後醍醐天皇の言葉を取り次いだ公家の坊門清忠は、「戦いもせぬうちに都を捨て、一年のうちに二度も比叡山に逃れることは、天皇の権威の失墜につながる。さらにはそもそも尊氏の軍勢は、以前に関東から上洛したときよりも大したものではなく、天皇の運によるものだ」と、決めつけた。さらに「急ぎ戦場へと向かい、敵を倒してこい」と、言い放った。

清忠の言葉を後醍醐天皇の言葉と受け取った正成は「この期に及んでは、何も異論を申すまでもありません。帝が大敵を打ち破る策を立て、勝ち戦に導くお考えではなく、ただ忠義に厚い武士を大軍にぶつけよと仰るのは、討ち死にせよとのご命令なのですね。義を重んじ、死を恐れぬのは忠臣勇士の望むところです」と答えた。

そして、その日のうちに京都の屋敷を引き払い、楠木一族、郎等の五百騎ほどの手勢で立ち、兵庫へと向かって行った(『太平記』)。

この一行の中に、正遠、行遠、高貞の三兄弟も含まれていた。