第二章 協調性と独創性「人間」考
見るからあるvsあるから見る
ところで、今回のテーマは「見るからあるvsあるから見る」であるが、世の中と向かい合う時のスタンスは、「見るからある」という視点と「あるから見る」という視点に分けることが可能であり、いずれをとるべきかは古くて新しいテーマである。
見るからあるの視点は、例えば、地域に中核総合病院が欲しいと熱望することからスタートする。今回の茨城県と二つの大学の連携強化については、千葉県のA病院まで茨城県から多数押しかけられてはかなわないというような申し入れがあったのかもしれない(これは全く根拠のない私の単なるイメージであるが……)。
あるいは私のような住民の熱望を察知した行政のありがたいプログラムなのかもしれない。とにかく、そのような熱望があれば、有志による話し合いがスタートし、考える会のようなものに発展して、やがては地域にすばらしい中核総合病院ができる原動力になるかもしれないのである。「見る(熱望する)からある」とはそのような意味である。
次に、「あるから見る」の視点は、客観的事実、つまり客観的に存在する(ある)事実を追究する立場である。自然科学は、このように普遍的な法則を探究する。単に科学と言えば自然科学を指すことからも分かるように、社会科学は後発科学のイメージをもたれることも少なくない。
このように社会科学よりも自然科学の方が優れていると考えている学者先生にはおしかりを受けるかもしれないが、はたして社会現象の分析を自然現象と同じ方法で分析することが適切なのだろうか。人間によって構成されている社会を、物によって構成されている自然と同列に扱わない方がよいという人もある。
社会科学の方法論で「価値判断排除論争」というものを聞いたことがあるだろうか。価値判断は「いい」とか「悪い」とかいう判断であるが、そんな善悪の判断を学問の世界に持ち込んだら、とても客観的な学問にはならないというような考え方である。社会科学の方法論を自然科学の方法論に近づけようという考え方であると見てもよい。一方では、人間の社会を分析する社会科学だからこそ「価値判断」が大切なのだという人もある。
いずれにしても、われわれは「客観的事実」という言葉に惑わされすぎているように思われる。例えば、不況、不況と言われる時に、多くの会社は不況を客観的事実と受けとめて「不況だから売れないんだ」と素直にあきらめるが、そういう時でさえもビジネスチャンスを見出す会社が必ずあるものである。
これはマスメディアや学者先生がいくら不況風をあおろうが、自分の頭で考えて、つまりビジネスチャンスは必ずどこかにあるはずだと考える(見る)ことによって、チャンスをつかむことが可能になることを示している。学生の就職活動だって同じことで、自己分析という客観的事実に縛られて、適性検査などによって自分の適不適を診断してもらい、それに従って就職活動を展開するのが普通のようだが、もしも熱望する仕事があるなら、その仕事獲得のために突っ走るのが、「見るからある」の視点である。常識的なやり方では常識的な結果しか得られないのである。