第二章 協調性と独創性「人間」考

花の都

最近のパリはそのようなことはないとも聞くが、日本では朝な夕なに犬の散歩をする人が非常に多くなった。飼い犬の散歩は犬の健康上も大切なことであろうから、愛犬家の義務とも考えられる。昔のパリほどのことはないかもしれないが、犬の散歩をする人々のマナーが気になるのは私だけであろうか。

飼い主にはいろいろなタイプが見られる。まずは犬の散歩は排便のためと心得て糞の始末などは毛頭考えていない人々である。例えば、私の家の前に親戚の所有する空き地があるのだが、その空き地で排便させて、素知らぬ顔で立ち去る人は少なくない。たまたま排便の現場を私たちに見られるとばつの悪そうな顔をする人が多いから、良心の呵責は感じているのかもしれない。

中にはすごい人もいて、車に犬を乗せてきてその空き地に犬を放して排便させるのである。何度目かのときに「そこはうちの親戚の土地なんですけど…」と言うとものも言わずに逃げて行ってしまった。

次に、悪質なのは飼い犬の糞を始末するポーズだけの人々である。このタイプの人々は人が見ていないと思うと用意している用具など使わずに排便させっ放しである。わが家の二階からそのような人々を時々見かけることがあるのだが、道徳心のあることを装っているだけにかえってたちが悪い。

このような偽善者タイプの飼い主は意外に多いのであるが、空き地に駐車する人や空き地で遊ぶ子供たちのことを考えてほしいものである。犬の糞をふんづけたことのある人なら、臭いだけでなく後始末に往生したことだろう。そのような人の迷惑を考えてみれば、無責任なことはできないのではないかと思うのだが…。

偽善者タイプが結構多いために、迷惑を被るのは飼い犬の糞をきちんと始末している人々である。偽善者のために同類に見られてしまうことが多いからである。良心的な飼い主は袋を用意して飼い犬の排便をきちんと持ち帰ることだろう。中にはシャベルで穴を掘って糞を埋めている人などもいるようだが砂地の多い田舎などではまだ許されるかもしれない。

わが家では両親が元気だったころ犬を飼っていたこともあるが、現在はその余裕がない。子供たちにせがまれたこともあったが、我慢してもらった。子育てや家族にある種の潤いをもたらしてくれることは承知しているが、大家族の切り盛りをほとんど一人でやっている妻の負担をこれ以上大きくすることには無理があったからである。

最近は都会でも田舎でも散歩やウォーキングやジョギングをする人が本当に多い。東京にいるときには結構歩くことは多いのだが、田舎では逆に車に乗ってしまうことが多いので、運動不足になりがちである。健康のことを考えれば意識的にウォーキングする必要がある。

わが町でもウォーキングをする人は非常に多い。散歩やウォーキングの道すがら、心ない飼い主が排便をさせっ放しにしているところに遭遇すると複雑な心境になる。大の大人に注意するのも失礼だし、どうか昔の人が言っていたようにお天道様が見ていると考えて、人が見ていようが見ていまいが、飼い犬の糞は責任をもって始末してほしいものである。

私は散歩やウォーキングのときには知らない人でもなるべくあいさつするようにしているが、犬を連れているにもかかわらず手ぶらの人に会うと積極的なあいさつが出にくくなる。