【前回の記事を読む】『日本書紀』に残る「皇位継承の資格がある宣言に等しい反乱」

1.多氏は何ものか

新羅の本心は、次のようであったと推測する。

・大和の豪族たちが、次期皇位を巡って分裂している

・大和に政治的くさびを打ち込む好機である

・幸いにも、継体も磐井も最終決断ができずに、ぐずぐずしている

・継体の外交方針は、すでに「百済寄り」である

・大和の半島領「任那」についても、継体はその一部を百済に譲渡する動きである

・新羅の任那侵略に対しても、強硬姿勢ばかりではない

・つまり「任那」に関しては、長期的には分裂・分解する可能性がある

・継体の「百済寄り」政策に対抗して、新羅は「磐井寄り」方針を鮮明にすべき

・磐井に「(まひ)(ない)」を贈って、新羅の支援体制をはっきり知らせる

・磐井に「九州独立」をそそのかした可能性あり

・継体の大和入部は、新羅側に政治的決断が熟したことを認識させた

・磐井も、継体の大和入りにより、大和の豪族たちの意志が継体に定まったと判断

・「磐井の乱」勃発、磐井敗死→糟屋(かすやの)屯倉(みやけ)を天皇家に献上

以上が、当時の磐井の心境・迷いの内容であった、と思われる。しかしここは、磐井の乱を述べているところではなく、磐井と多氏が同族であったことを論証しようとしている。

そこでこれまでの内容を整理すると、次のような結果になる。

1.建借間命の故郷は、杵島=伊都国南隣(佐賀県西部)である

2.天孫崇神軍の将軍として常陸国に遠征・討伐して、初代那賀国造になった

3.那賀国造の祖は(かむ)()()(みみの)(みこと)=神武天皇の次男=意富臣(多氏)

4.建借間命は多氏の出身であり、多氏は甕神を擁して常陸入りした

5.常陸国の多氏は、鹿島神宮のご神体を甕神とした

6.鹿島神宮の祭神は、多氏の建借間命(武甕槌神)である

7.建借間命の祭神名は、建甕槌命→武甕槌神→武甕雷神→建御雷命へと変遷した