2. 多氏への戦後処理

建借間命が多氏であることが分かると、国譲り戦後の同氏の処遇にも、注意を向けなくてはならない。多氏の故郷は杵島であり、筑紫であった。または九州中部や南部を含む広域を支配する大氏族である、といってもよい。何といっても、多氏は戦後の不安定な時期に、軍勢を遠く常陸国まで差し向け、天孫崇神を手助けしているからである。

「神武記」神八井耳命から分岐していく氏族には、実に多くの名前が記載されている。全文を示すと、

神八井耳命は、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奥の石城國造、常道の仲國造、長狭國造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣等の祖なり。

ここには全部で、19氏が載っている。その地域的特徴から、九州(西海道)や四国(南海道)、また東山道沿いに科野や陸奥、東海道沿いでは伊勢、尾張から常陸にかけて、ヤマトの周辺部を支配領域にしていた大豪族としての、多氏の実像が浮かびあがってくる。

換言すれば、ヤマトの中枢部は天孫崇神が支配し、その他の地域は軍事支配力を前提にして、多氏一族が担当する統治システムが想定できるのである。

神武次男の神八井耳命と天孫崇神とは、神話における登場時期が異なる。すなわち神武は初代、崇神は10代目の天皇であるから、史料的に矛盾のない書き方を心掛けるなら、「大和の中枢部は神武が支配し、その他の地域は、神武次男の神八井耳命を祖とする多氏一族が担当する統治システム」とすべきであろう。

しかし神武も崇神もともに「ハツクニシラススメラミコト」であるから、「崇神―神八井耳」の組合せでも、ある意味では矛盾していない、といえるかもしれない。