いつも空腹であった。時々大川村に東京の家を焼かれ疎開をしていた金子ゆき伯母の家に皆で出かけた。畑の草取り、大根の間引きなど軽労働をした。その後白米をたらふく食べさせてもらうことが楽しみだった。

片道一時間の徒歩であったが、長姉をはじめ兄弟姉妹で習ったばかりの歌を歌いながら帰った頃を思い出す。特に長姉に柳川高女で習ったドボルザークの歌など新曲を往復の道を歩きながら教えてもらったのが懐かしい(後にチェッコ共和国の大学で教鞭をとった。同国がドボルザークの祖国であり、彼の音楽に同国の自然や文化の色彩を感じることとなった)。

今は亡き伯母は、いつも空腹な我々家族のために、このような機会を設けてくれたのであろう。感謝したい。

戦時中には生活物資が無い。寝具にする材料が無いので、藁を集めてそこに寝た。小生の寝小便が治らないので、白木村の東洋医学の由布先生の所に通うことになった。幼い妹を背中に負ぶった篤子母と歩いて通ったが、ある時から白木村の武藤家に小生だけが泊まって治療を続けることになった。ひとりで泊まり、武藤家の子供達と遊んだ。普段食べられない苺を食べたのを思い出す。孟宗竹弁当箱で食べたりなど、林業中心の村での初めての経験は面白かった。

長崎市への原爆投下の瞬間に、何故か東京に残っているはずの父経秋が白木村の由布家の座敷に一緒に居た。座敷から閃光が見えた気がするが確かではない。大人の会話から異常事態であることは分かった。お陰でその後寝小便は治った。つまり筆者の寝小便は長崎原爆投下で止まったのである。

ここで白木村への長い道のりを一緒に歩いてくれた篤子母への思いと感謝を捧げたい。この体験が一番脳裏に残っている。その後、色々な出来事が起きて、篤子母との間もこじれた時期があった。それはそれとして、生前にもっと優しく接すべきであったと心から後悔をしている。