神田神保町で小さな芸能社の営業をしている薬袋(みない) 賢治は、昼飯にいく途中の本屋の店頭でたまたま立ち読みした週刊誌の記事に釘付けとなった。

元・帝国陸軍報道部中佐、山家亨の自殺を報ずる記事だった。一九四三(昭和十八)年のある日、突然、内地に召喚された山家中佐が、市谷の司令部に出頭するとそのまま逮捕、取調べを受け、国家反逆罪・機密漏洩罪、軍紀違反、麻薬吸飲など十項目以上の罪状で起訴され、軍法会議にかけられた。十年の禁固刑だった。その後名古屋の陸軍刑務所に収監されたが、空襲で刑務所が爆撃され、その混乱のさなかに逃げ出して、終戦まで身を隠していたという内容である。

なおも読み進めると、〈郷里の静岡で身体を休めると山家は昭和二十一年に上京、昔の報道部の部下を集めて丸ビルの地下室に文化社を作り『マッセズ』という労働組合運動のグラビア雑誌を発行、次いで『スクリーン・ダイジェスト』にも手を着けたが、いずれも数号で失敗した。次に茅場町で大鳳社という印刷屋を始めたが、入ってくるのは不渡手形ばかりで、たちまち数百万円の借金ができた。これまで親類、同期生には金を借り尽くし、もうどこにも顔出しできなかった。(中略)

苦し紛れに山家は、日本労需物資という幽霊会社を作り、今度は自分が不渡手形を出した。野方署は詐欺の容疑で山家を追い始めた。すべては武士の商法だった。昔の部下は昔のように、彼のためにすべてを捧げてはくれなかった。終戦後の人心は、すっかり“部下の心”を変えていた。何をしても失敗。彼は全く希望を失った〉と、戦時中は情報将校として上海などで活躍した山家亨が戦後になって出版事業などに失敗して、自殺に追い込まれるまでの経緯が書かれていた。