第Ⅰ章 看護について知る

3)近代:明治、大正、昭和

明治時代は資本主義が発達し確立期を迎え、新しい生活により人々の健康状態は向上した。

だが、「コレラ、ペスト、赤痢などの急性伝染病」が大流行し、1883(明治16)年には大日本私立衛生会が組織され、明治中期には衛生唱歌という歌にして覚えるという教育唱歌運動がおきた。

そして、明治後半は結核が社会問題であった。

「看護婦」の名称は1876(明治9)年の「東京医学校」の公文書に用いられていた。近代的医療制度の始まりとされる「医制」は1874(明治7)年に制定され、公営の病院が官立医学校附属病院に変わり、多数の貧困者層の診療は開業医が行うこととなった。

看護労働の必要性も高まり、入院時の付き添い看護婦として、「開業医宅に家事、雑用をふくめて診療の介助に雇われる住み込み女性」として、あるいは大きな病院に勤める女性看護人であった。

近代看護教育は1880年代の後半から、ナイチンゲール方式として始まった。

ナイチンゲール方式とは、以下の2点である。

1885(明治18)年から86年にかけてはトレンド・ナース(TrainedNurse)といわれるナイチンゲール方式による養成が行われた。

●看護婦は「訓練という目的のために組織された」病院で技術的に訓練されるべきである。

●看護婦は人間的かつ規律的生活をするのに適した「ホーム」で暮らすべきである。

訓練を受けた看護婦は「派出看護婦」として、患家と雇用関係を結んで、自宅療養中や入院中の病人に付き添い看護を行った。

伝染病流行時には、派出看護婦は流行地の役場で地元の女性たちに伝染病看護の速成訓練の指導を行ったため、社会的活動として注目されたという。

1899(明治32)年に大關和による派出看護婦の手引書である『派出看護婦心得』が刊行された。内容は以下のとおりである。

1.病室に就ての注意

2.病人に就ての注意

3.醫師に對する義務

4.家族に對する務

5.自身に就ての注意

6.患家に於て終日勤むへき順序

7.赤痢病舎に聘せられし時の心得

8.隔離病舎に於て服務時間割

9.死体取扱ひ方

大正期に入って内務省令看護婦規則が1915(大正4)年に発令され、全国的な看護婦資格や業務内容が統一された。

医療の社会化の動向が見られ、「大正デモクラシーの運動の広がり、世界的な疾病予防の衛生思想、児童愛護思潮などの影響」があり公衆衛生看護活動が盛んに。乳幼児死亡率の高い無医無産婆地域が多かったため、公設産婆が生まれた。

また、1918(大正7)年に発足した賛育会は、1920(大正9)年から貧困家庭に社会事業として産婆を巡回させることに(巡回産婆)。

大正末から昭和にかけて訪問看護活動が始まり、家庭訪問による健康の保持増進のための看護支援が行われ、同じ頃に、学校看護婦の採用の必要性も高まった。

昭和に入ると1930(昭和5)年頃から「昭和恐慌」による不況に始まり、その後、満州事変(1931(昭和6)年)、日中戦争(1937(昭和12)年)、太平洋戦争(1941(昭和16)年)へと軍事化が進むことになる。

看護婦は戦時救護に携わるようになり、日中戦争の時には従軍看護婦も不足しがちとなり、太平洋戦争では国が看護教育制度においての免許取得年齢を1941(昭和16)年には18歳から17歳へ、1944(昭和19)年には16歳となり修業年限も短縮されて即戦力の養成の場になっていった。

戦争の悪化は国民の健康の破綻へとつながり、ファシズム体制のなかで物資が規制され食糧不足による国民の栄養状態も悪化し、学童の体位も急激に低下した。