その義経は更に打ちのめされることになった。正式な除目が行われ、義信は武蔵守に、広綱は駿河守、範頼は三河守に任ぜられたほか、景時は播磨・美作の国司、実平は備前・備中・備後の国司に任ぜられた。景時が国司になって、義経の名はどこにもなかったのだ。思い起こせば、鎌倉から感状さえ出されていない。
この処置に、法皇はじめ都人達は首を傾げ義経に同情し、鎌倉を非難した。
「これは如何なることぞ。頼朝に正確な報告は届いてないのではないか」
と、法皇は泰経に質したが、
「それは考えられません。頼朝公に何かの思惑があるのではないでしょうか」
「そうであっても、これではあまりにも片手落ちだ。よい、九郎にはわしから直接位階と官職を与える」
「鎌倉から、院が勝手になさらぬように。と上奏されておりました。そして、院はそれを承認為されましたが」
「それは、納得できる上申があったればの事。これでは九郎が可哀そうだ。頼朝なんぞに否とは言わせぬ」
先に届けられたあの三項目で、法皇は頼朝の腹を読んでいた。
『清盛の如く宮廷を牛耳ることができるかの瀬踏みであろう』
それは許さぬ。この国は朝廷や院が支配するのだ。それには鎌倉に対抗できる勢力を作り、わしがうまくそれらを操る。今の平家では頼朝の対抗馬になれるか心もとない。ならば、九郎を立てようではないか。幸い九郎は御しやすいし、将才がある。
ただ、頼朝と広元には持論があった。義仲戦・一ノ谷合戦に勝ったのは、『義経によってではない。頼朝の武威によるものだ。諸将が頼朝に忠義を尽くしたからだ』
つまり『義経の戦功ではない』という、広元の解釈を頼朝は是とした。でなければ、頼朝は諸将の上に立てない。世の人達は一人義経の手柄であると見ているが、それを認めると、自分がかすみ、合戦に参加した諸将の存在が消える。頼朝が出した恩賞は鎌倉方では、平等に評価されたと好評であり、改めて頼朝へ忠誠を誓った。
義経があくまで頼朝の家人であるとしても、やはり何の恩賞もないのは異常であり不条理であると、当時もそれ以降も人は思った。
義経に院から除目が出された。除目とは『古い官を除き新官を目する』という意味で今でいうと辞令に当たる。義経には官職はなかったので新任であった。