ちなみに、日清戦争以来、仏教布教師が従軍し(特に浄土真宗本願寺派が多かったらしい)、日露戦争時の明治37・一九〇四年7月、前線で戦死した兵士の慰霊祭が行われた。

「布教師が持合せの阿弥陀仏の画像を祭って、その前に箱に納められた遺骨を積み重ね」、布教師が読経し師団長が香をたいて礼拝している(桜井忠温『肉弾』 長嶺秀雄『日本軍人の死生観』原書房 11より引用)。

一方、お墓について、尾藤正英は『江戸時代とはなにか』(岩波書店 12)で、いわゆる「両墓制」(註:「埋め墓」と「詣り墓」を言い、「家」の自立と村落共同体の形成の遅れた九州・東北地方以外に多いとされる―新妻)の成立を一五、六世紀頃に想定し、墓地が二カ所に分かれた理由を次のように想定する。

「埋葬地が不浄であるとされたのに対し、弔うべき対象としての死者の霊魂は、浄化されたものとして、区別される必要があったからであり、それが浄化されたものと考えられるようになった主たる理由は、仏式の葬儀により、その霊魂が阿弥陀の浄土など仏の世界に赴いたとされた所にあったと思われる」と述べる。

こうした仏教葬儀と「家」の先祖・親族に対する供養とお墓の成立が前史としてあり、「江戸時代の寺檀制度の確立は、こうした葬式仏教進展の最後の総仕上げともいうべきものであった」(前掲10)。

その「葬式仏教」は昨今まで貶おとしめられることが多かったのだが、尾藤正英に言わせれば「受戒が極めて重要な儀式だったにもかかわらず、誰でも死んで戒名を付けてもらえる」こと、「すべての人が死後には葬式をしてもらえるようになったというのは、それ以前に比べると画期的な変化であって、人々の精神生活の上に重要な意味を持っていた」(尾藤『日本文化の歴史』岩波新書 13)と再評価されている。