行方郡の戦では、穴居する「国栖(くず)(土着の先住民、賊:筆者注)、名をば夜尺斯(よさかし)夜筑斯(よつくし)と曰ふ二人」を、騙し討ちにしたのであるが、そのとき敵を欺くために利用したのが、建借間命の故郷「杵島(きしま)鹿島(かしま)(=借間(かしま))」の歌舞音曲であった。

(きね)を鳴らし(うた)(うた)ひ、七日(なぬか)七夜(ななよ)、遊び楽しび歌ひ舞ふ

背後から襲いかかる予定の騎士たちを除き、建借間は軍装を解かしめ、代わりに故郷の歌舞を楽しんだのである。それも七日間も夜昼となく、杵をリズミカルに鳴らして、国栖たちをその住処から誘い出したのである。古代の「歌垣」というものであろうか、現在でいえば盆踊りに相当すると思われる。浮かれた彼らは、つい気を許してしまったのである。

(たけ)借間(かしまの)(みこと)騎士(うまいくさ)をして(とりで)を閉ぢしめ、(しりへ)より襲ひ繋りて、(ことごと)種属(ともがら)を囚へ、一時(もろとも)()き滅しき。

このようにして初代那賀国造となった建借間命を、神武天皇記の記述に結び付けると、建借間命は多氏の出身であると推測できる。

(しか)して()れましし御子の名は、日子八(ひこや)(ゐの)(みこと)、次に(かむ)()()(みみの)(みこと)、次に(かむ)(ぬま)(かわ)(みみの)(みこと)、三柱なり。(神武天皇の次男)神八井耳命は、意富臣(略)の祖なり。(神八井耳命は、)常道の仲國造(略)の祖なり。

()()臣=多臣。「常道」は「常陸」のこと、また「仲國造」は「那賀国造」である。すると次の関係が成立することになる。

〈建借間命=「那賀国造が初祖」〉 → 〈那賀国造=仲國造〉 → 〈常道の仲國造の祖=神八井耳命〉 → 〈神武天皇次男の神八井耳命=意富臣(多氏)〉

既にふれた()()多多(たた)(たね)()も、多(意富)氏の一族である。

さらには6世紀前半、継体天皇と戦った「筑紫の磐井」も、多氏に連なる一族である可能性が高い。継体記の該当部分である。すなわち「(つく)()()石井(いはゐ)」も、甕神信仰の多氏である。