【前回の記事を読む】術後の痛みを訴える患者に冷たい看護師。板挟みの担当医師は…

Passengers ――過ぎ去りし人たちへのレクイエム

医者は二重人格?

私は冷めた目で、この患者の行く末を見つめていた。患者の未来を予測し、それを胸中に秘めることは、時に苦しく精神的にストレスとなる。

患者と家族を一見、慈愛に満ちた目で見守り、にこやかに接している私の中では別の醒めた目を持った人格がじっと未来を見つめ、事実をもとにいろいろ計算し考えている。

どちらかが本当の自分というわけではなく、自分という一人の医師の中には異なる二人がいつもいて、議論し、批判し、時には他方を圧倒し、時には妥協する。医者はすべからく二重人格者であり、一人の中に共存する二人を上手に操っていくことが名医の条件かもしれない。そのためには、その二人を俯瞰(ふかん)する冷静な目が必要になる。

冷静という言葉には「感情を排除して論理的に」という意味が含まれる。

入院期間が長引き患者との付き合いが深まっていくと「情が生まれ」、時に判断を狂わすことがあるので医者は患者との距離に気を付けるべきであると嘗て教えられたが、理屈ではわかっているつもりでも、実地臨床ではそうはいかない場合もある。人間としての付き合いが深まる一方で冷徹(れいてつ)な事実も否応なしに見え、迫ってくる。

手術日ではないので病棟も心なしかのんびりしている。

私は窓に面した机にカルテを広げた。窓からは遠くの山々が少し(かす)んで見える。私はぼんやり外を眺めていた。「生と死が日常」と何の脈絡もなく突然また思った。

一般の人は一生の内にどのくらいの人の死を直接経験するのだろうか。いくら多くてもせいぜい10人程度であろう。私はそれまでにおそらく100人ほどの人の死に直接立ち会ってきた。その一人ひとりに家族があり、いろいろな背景があり、そして出来事があった。

他人の人生の最期に自分が立ち会っているということは、どういうことなのだろうか。自分にとっては大勢の中の一人であり仕事の中の一場面であるが、患者と家族にとっては人生の大きな出来事であり、自分はその中の共演者になっている。そう思うと、とんでもなく大事な役割を自分は担っているのだという気がする。

医者になりたての頃は人が死にゆく場に自分がいることがなぜか誇らしかった。たとえ癌の末期であっても、病棟から「急変です」という連絡があると急いで駆けつけ、家族を部屋から出し、誇らしげに蘇生(そせい)処置(しょち)に汗を流した。先輩たちがやってきたそのようなことになんら抵抗も疑問もなく、一分一秒でも心臓を動かすことが当然の使命と思っていた。

しかし数年前からは、これでいいのだろうかという疑問が芽生え、患者の死に対して畏怖(いふ)の念を抱くようになってきた。それまで「死」はモノトーンな「ある生命の終わり」という認識でしかなかった。最近では死にゆく人の人生に深入りし、時に自分を置き換えて考えていることに気付く。