【前回の記事を読む】患者の普段着に違和感…「病気であることが日常」という非日常
Passengers ――過ぎ去りし人たちへのレクイエム
不安を呼び起こす夜の闇と静けさ
靴を履き替え、手指を消毒し、私は術後回復室に入った。昨日の手術患者がベッドに横たわり、一対一で看護師がついている。「やあ、おはよう」と、私は担当の看護師に軽く挨拶した。彼女は記録を仕上げるのに忙しいのか、こちらを見ずに挨拶を返した。顔を見た瞬間に何も言わないのは大きなことは起こらなかったのだな、と勝手に解釈し、少し安心して私はベッドサイドに立った。
しばらくモニターを眺め、患者の状態をざっと確認したあと、処置台に置かれた観察表を手にとり目を通した。幸い胸腔ドレーンからの出血も少なく、空気漏れもわずかで心配するようなことはなく、ほぼ順調な経過だった。
枕頭看護についていた看護師から簡単な経過報告を受ける。
夜に患者のベッドサイドにいると少しの出血量でも気になり、ちょっとした出来事も悪い方に考えてしまい不安になる。夜の闇と静けさは暗闇の世界に通じる道から湧き出て、この世の人間に冷ややかな息を吹きかけ、不安を呼び起こすのだろうか。
朝になると不安は雲散霧消し、夜に考えたことがまるで嘘のように思えてくる。
「おはようございます、いかがですか?」
もう一度、大体の状態を把握してから私は患者に話しかけた。
「ああ、先生、おはようございます。ゆうべは痛くて、痛くて、注射してくれと言ったら、時間が経ってないからだめですなんて言われて」
彼は待ち構えていたように言葉の弾丸を撃ちかけてくる。
「手術は予定通りで、うまくいきました。経過も順調ですよ」
聴診器を胸に当てながら私は患者に話しかけた。その瞬間にも私は患者の声、顔色、腕の動き具合などいろいろな情報を得ようと患者を観察している。声はよく出ているし痰の絡みもない。麻酔の覚醒も良さそうだ。術側の腕の動きもいい。
「痛みは我慢しなくていいですよ。手術して痛いのは当たり前ですから我慢せずに言ってください。いろいろな痛み止めがありますので使ってみましょう。痛みを止めて咳をして痰を出す方が大事ですよ」
そう言いながら私は病棟の深夜勤務の看護師が「もう、あの人は我慢できないんだから。ほんとにわがままなんですよ」と私の顔を見るなり挨拶もなしに口をとがらせて言ったことを思い出した。
あの溌剌とした純真な看護学生も看護師になってしまうと患者より一段高いところに立ってしまうのかなと思う。
日常業務を時間内にこなさねばならない忙しさの中で、訴えが多く手を取られる患者は「わがまま」と括ってしまうのだろうか。手術して不安と痛みでいろいろ訴えるのは人間として当たり前で、それを受け止めるのが医療従事者であるはずなのに。
でも彼女たちにそのようなことを言ってうるさがられるのもいやだし、確かにそうかなと思うところもあるので、私は自分でも「ずるいな」と思いつつ、常に微笑とも苦笑ともつかぬ表情で聞き流している。