患者に育てられる

生と死、使命感と無力感の入り混じった世界で、他人の人生に寄り添い、背負い、導き、共に歩もうとするのは疲れる。「共感」と人は簡単に言うが、ほんの一瞬すれ違った他者のことがどこまでわかるのだろうか。それをわかったような「ふり」をするのは傲慢(ごうまん)ではないだろうか。

医療は自分の仕事をできるだけ全うし、「患者」の気持ちを推察しながら、ただ伴走することしかできない。

患者の様子に一喜一憂し、予後に思いを馳せると気持ちは重く沈んでいく。

距離を置けばいいのかもしれない。しかし、自分を頼ってくれている人にはいつの間にか境界線が曖昧(あいまい)になってしまう。

振り返ってみれば「患者さん」が自分を育ててくれたことに気付く。

映画『プライベート・ライアン』の冒頭で、年老いたライアンが嘗て自分を助けてくれた大尉の墓に詣でて、「あなたに報いた人生を私は送ってきたでしょうか」と問いかけるシーンがある。

私は医者になって2年が過ぎた頃の光景を思い出していた。出向していた病院を去る朝、私は彼の病室を訪れた。

「今日、大学病院に戻ります」

「そうか」

彼は目を開け、つぶやいた。顔は黄色く、呼吸は浅い。半年前に交わした「最後まで診る」という約束は果たせなかった。私は彼の冷たい手を握り、「ごめんね」と耳元でささやいた。彼は手を握り返し、目を閉じた。そっと部屋を出ようとすると、後ろから振り絞るような声が響いた。

「ドドーンと立派な医者になれよ」

振り向くと彼は両手を突き上げ、私を見て微笑んでいた。私は頷き、彼の目を見た。あれから彼の言葉を忘れたことはなく、「私はあなたが期待した医者人生を送ったでしょうか」と問いかける日も近い。

自分という一人の医者を育て、形作ってくれた力の中に私が看取ってきた多くの人の思いが満ちていることを感じる。診療中に彼らのことを思い出すと、彼らが共に患者さんを診てくれている気になる。

いつか彼らと再会することがあるなら、自分の行ってきた医療、医者としての行動について話してみたいと思う。

はたして自分は彼らのために何かできたのだろうか。彼らはどのように思ってくれていたのだろうか。「少しはお役に立つことができましたか」と尋ねてみたい気がする。怒られるかもしれない。

自分の前を通り過ぎていった人たちのことを、私は折にふれて思い出す。そして彼らが自分の中に残した足跡を、そっとたどってみる。