【前回の記事を読む】「私はね、雨の日に敢えて歩こうって言う人が好きなの」

明日の私と私の明日

会計を済ませて後から出てきた里香に、佳奈はお辞儀をしてお礼を言った。

お互いのアドレスを交換した後、さっきのピアノ曲のタイトルを尋ねるとエリック・サティの【ジムノペディ第一番】だと教えてくれた。 佳奈は直ぐにメモをした。忘れないでおこうと思った。そして今日の出来事も、忘れないでおこうと思った。

里香の後ろ姿を見送った後、佳奈は暫く構内を見回した。ふと前を見ると、ブレザーを着た男の子が前を歩いている。佳奈は思わず走り出して、その男の子の手を取った。驚いた男の子が振り返り、人違いだと気づいて頭を下げた。

一日一日を、何事もなく無事に終えられるように、祈る思いで生きている人達もいる。何となく過ごす日常を変える為に、今からでも自分から何か行動に移す事ができたら、誰かの何かが変わるだろうか。

昨日までの自分が、明日からは少し変わるだろうか。

佳奈は携帯で、視覚障害者について検索した。知らない情報がたくさん出てくる。携帯をこんな風に使った事が殆どなくて、SNSを見るのも忘れている。

ちょうど、駅での視覚障害者用設備について書かれたブログを見つけ、読みながら構内を見渡す。改札横の、切符の販売機に点字の運賃表があるのを見つけた。そして切符販売機には点字パネルがある。足元には黄色い誘導ブロック。階段の手摺りにも点字があった。

毎日通っているのに目にも留まらず、まったく気づいていなかった。そしてこれらの設備が、とても使いづらい所に設置されている事にも気づく。佳奈の中で、見える景色がどんどん変わる。

もう一度、彼に逢ってみたい……。逢ってどうするのかは、今はわからない……。でも何かが始まるかもしれない予感を、もう自分から切り離す事ができない。たとえまた、いつかのように散ってしまっても、今はそれさえも自分の中に受け入れられそうな気がした。傷つく事で、相手に何かを与える事ができれば、里香のような大人になれるんじゃないかと思えた。

目を閉じて、今日の出来事を頭の中で逆再生してみる。もしあの時、ファミレスを出るのが数分遅かったら。もし、白杖を持った彼を見かけていなかったら。もし、片山里香という女性を追いかけていなかったら。

たった一つの選択肢がずれるだけで、もしかしたら、明日もまた同じように無関心な一日を終えていたかもしれないという、パラレルワールドのもう一人の自分を想像した。

脱ぎ捨てたくなるほど嫌な自分が次々と溢れ出て、突然過呼吸になった。佳奈は耐えきれなくなって胸を押さえながら近くの販売機の横に座り込んでしまった。