【前回の記事を読む】年明けを家族で寛ぐなか…弟を看病する義妹からの衝撃の連絡
諭の病気
一、二か月の余命という宣告が当たらなかったのは、皮肉にも両親の変調が発端だったかもしれない。布由子が東京から帰ってくるとすぐ実家の母の発熱が続き、泌尿器系の感染症で入院することになった。それから一週間も経たない土曜日の早朝に父が吐血し救急車で病院に運ばれた。布由子が病院に駆けつけたときには「大動脈解離」で死亡が確認され、哲生が連絡して集まってきた父の弟妹たちも突然の出来事に呆然としていた。
亡骸を実家に連れ帰るとすぐに、布由子は埃の溜まった女手のない実家を大掃除し、喪主となる兄とともに葬儀社と打ち合わせをしながら、通夜や葬儀の段取りを進めなければならなかった。通夜には母を入院先から車椅子に乗せて連れ出し、父と最期の対面をさせた。
哲生が諭に父の訃報を知らせ、諭と沙織から「手伝いもできず、葬儀にも出られなくて申し訳ありません」というそれぞれの手紙と香典が送られてきた。沙織は消化器系の炎症が出て自身もダウンし、諭と同じ病院に数日入院していたことも書かれていた。
もちろん弟夫妻の手伝いなど望むべくもなかったが、諭がまだ社長として在籍している会社やグループ企業から届けられた数多くの生花がセレモニーホールの祭壇を飾り、総務担当の社員も東京からお悔みに駆けつけてくれた。
急な不幸で「父にもう少し優しくしてやれば良かった」という後悔は残ったものの、父が先で良かったと布由子は思った。諭は葬儀や母親の体調など何くれとなく心配してメールを寄越し、布由子は祭壇の並びや、メモリアルコーナーに飾った古い家族写真や自分で書いたポップ風のコメントなどをスマートフォンで撮って弟に送った。その間、彼は自身の不運な病気のことは忘れているように感じられた。
葬儀当日は大雪に見舞われ、関東や山梨でも尋常でない降雪により中央自動車道は通行止め、JR中央線が終日運休となる事態となった。葬儀が終わって数日経つと、布由子は生まれて初めてインフルエンザに罹患した。幸い軽症だったが、体力の衰えを感じた。
沙織からは諭が治験のためまた転院するかもしれないと聞かされていたが、一月の終わり頃になると、
「金曜日に医者から話があり、白血球の数値が高すぎて今回の治験は難しいという結論が出てしまいました。また先の見えない日々が始まりました。諭さんも治験に前向きになっていたところでしたので、夜に二人で抱き合って泣いてしまいました。なかなか良い報告ができずに申し訳ありません」
と連絡があった。
布由子は沙織のメッセージを読むと堪えきれずトイレにこもり、声を上げて泣いた。