2.についても、裏付け史料を並べることは可能であるが、論理的な証明としては難点がある。しかし、それを懼れずに述べてみよう。すなわち古代天皇の和風諡号の中に、ユダヤ系秦氏やユダヤ系に特徴的な名前を発見することができる。
既著でも言及したが、応神天皇の諡号「誉田天皇」は、次のように変化して、秦氏系の大王であったことが分かる。
HOMUTA → HONDA → HANDA(半田)→ HATTA(八田)→ HATA(秦)→ HADA(波多、羽田)
さらに継体天皇は、「男大迹天皇」である。その名は、「越のユダヤ系天皇」を意味すると思われる。「倭」や「越」は、古くは「WO」と発音した。前306年に、長江河口付近の「越」が「楚」に滅ぼされたあと、海に逃れた越人の一派が朝鮮半島南部や日本海に流れて、北九州や北陸に小国家を成し、倭国に弥生時代が始まったのである。
WO = 越(=越前) → 「男」
HODO = ユダヤ(の) → 「大迹」
『紀』では天皇の別名として、「更の名は彦太尊」と伝えている。こちらの意味も矢張り、「ユダヤ」に関係している。すなわち、「ユダヤの男神」である。「HUTO」が「ユダヤ」の意であることは、既にくどいほど述べてきた。
HIKO → 男
HUTO-NO → ユダヤ-の
MIKOTO → 神(貴人)
継体天皇が大和に入部する前に、宮居を構えた場所は淀川の岸辺であった。大和平野からは山地を一つ隔てて、そこは秦氏や鴨氏が枢要な場所を占め、現在でも太秦(寝屋川市)や、三島鴨神社が在る「三島江」などの地名を確認することができる(鴨/賀茂=出雲ユダヤ系の首長一族)。ユダヤ系の人々が多く住む所は、御名にユダヤを冠する彦太尊にも、安全な場所であった。
また継体天皇の御陵(今城塚古墳)は淀川右岸の高槻市にあって、同地の秦氏などが、その築陵に大きな資金、労働力を投入したことが窺われる。応神・仁徳以降の大規模な天皇陵や土木工事も、天皇家と密接な関係にあった秦氏の全面協力が不可欠であった。
要するに応神や継体などの天皇の事績は、ユダヤ系の秦氏や賀茂氏の存在抜きには語れず、それらの和風諡号を発音データとして眺めるとき、秦氏は天皇家の中に身を潜めてしまったと考えられる。
HOMUTA = 秦
HUTO・HODO = 普洞王・浦東王 = 秦氏(←『新撰姓氏録』「諸蕃」)
しかし継体は何故、子なき武烈後の天皇に迎えられたのか。当時の大和には、物部氏や大伴氏などの大豪族が居て、彼ら自身が大王位に就くことも可能であったと思われる。そんな豪族間の政治体制=考え方・行動様式こそが、自らの利害を差し置いて、継体招請のため越前まで「臣・連」たちを出向かせた原因である。
このような政治体制は、朝鮮半島「月支国」経由の「古代共和制」とも呼ぶべきものであった。『三国志』・「魏書」(東夷伝)の「月支国」に関して、『古代韓国のギリシャ渦文と月支国』(韓永大/明石書店・2014年)からの引用。
「(馬韓五十余か国の一国に)月支国がある。辰王は[月支国に都を置き]統治している」(馬韓伝)
「[辰王は]代々相継いでいるが、辰王は自ら王になることはできない」(弁辰伝)
つまり月支国では、選挙・推戴によって王を選んでいたのである。一種の共和制と言わざるを得ない。この辰王の一族が古代倭国に渡来し、継体のころにも、伝統的な政治体制を維持していたと考えられる。
以上が、「騎馬・ユ支配説」の概要である。